深刻さは自我の餌

自分自身のことや自分の身に起きることを、とかく深刻に捉えてしまう人がいるものです。それは一体どこからやってくるのか?

もちろんのこと、それは本人の不安が大きくてそれを何とかしようとして余裕のない状態になることが原因なのです。

余裕がなくなると、視野が狭くなって自分の思い込みの世界へと没入して、そこから抜け出せなくなってしまうのです。

そうなると深刻さは当然の帰結としてやってくるのですね。同じことが起きてもそれほど深刻にならずに済ませることができる人もいます。

深刻になったところで、何も利点がないことに気づいていれば、深刻になることが馬鹿馬鹿しくなるのです。

その最も極端な例は達観するということです。問題らしきものが起きて、そこから距離ゼロのところであたふたしている自分から距離を取れるということです。

達観することができると、物事を物語として見れるようになるのです。そこには深刻さは微塵もありません。

昨日のブログでも書いたように、海面でのドタバタ劇を深海で見守る境地、これが達観するということです。

深刻にならずにいられるようになると、自我は困ってそのエネルギー(活力)が奪われていくことにも気付けるといいですね。

マインドは多重人格

もしもあなたのマインドが一枚岩で出来ているのであれば、セラピストなんて職業はすぐに必要なくなるはずです。

ところが実際にはマインドというのは、多くの断片に内部分裂しているのです。お互いが足を引っ張りあって、瞬間瞬間に力の強いものに飲み込まれるのです。

もしもあなたのマインドの100%が癒しを進めたいと願っているのであれば、すぐにでも癒しは進んでいくはずです。

実際にそうならない理由は、癒しに全く興味を持っていない人格がいるし、癒しを怖がっている人格もいるのです。

そして、癒しに真っ向から反対の立場にある人格もいて、それはあらゆる方法を駆使して癒しにブレーキをかけ、妨害してくるのです。

まさかそんなことがあるはずがない、わざわざ時間と労力とお金をかけてセッションに赴くのだから、全面的に癒しが進むことを期待しているはずだと。

けれども本当はそうした表面的な人格は、マインド全体の1割もいない可能性だってあるのです。そこを理解することです。

マインドは自分自身の思いの戦場だと思って欲しいのです。それぞれが展転バラバラに活動して、自分の思いを優先しようと躍起になっているのですから。

そうした海面近くのバタバタ劇こそがマインドの姿であり、本当のあなたはそれを深海から静かに見守っているのだと気づくことができるといいですね。

死ぬのは自我と身体

誰もが平等に背負っているもの、それが死ぬということです。生まれたからには必ず死ぬことが決定しているわけです。

そこにはどんな例外も認められないのです。その絶対的な平等さの中で一体何が死ぬのか?死ぬのは自我と身体です。

いつかは身体が朽ち果てていくことに疑問を持っている人はいないでしょうが、自我が死ぬことは認めたくない人もいるのです。

それで永遠の命というものが手に入らないかと考え出すわけです。不老長寿を願うのもその一つかもしれません。

どれほど永遠の命を望んだところで、いずれあなたは死ぬのです。あなたという自我が死ぬことになるのです。

けれども、あなたの本質である純粋な意識にとって、死は決して訪れることはありません。死ぬための何もそこにはないからです。

生き死にというのは、この時空の次元内で起こることなので、意識はその範疇ではないのです。

繰り返しますが、残念ながら個人としてのあなたは必ず死ぬことになるのですが、本当のあなたは死なないということです。

もしもあなたが意識としての自己を深く理解して、その永遠性を見抜くことができれば、人生の半ばにして自我の死を興味を持って待つことができるようになるかもしれませんね。

潜在マインドは思考と感情のるつぼ

小学生の頃に初めて潜在意識というのがあるというのを知りました。何だかとても魅力的な響きがありましたね。

フロイトの精神分析入門的な本を読んで、すごく興味を持ったのを覚えています。自分の未知の部分に光が当たったような気がして。

今となっては潜在意識という言葉とその意味を知らない人は少ないはずですね。ただ、この言葉どうも誤解を与えやすいのです。

潜在というのは潜伏しているという意味なので問題ないのですが、その後に意識というのが付くのが大問題です。意識とは無関係なので。

もっと正確に表現するなら、潜在しているマインドの部分ということになるのですが、つまりは「潜在マインド」と呼ぶ方がいいのです。

マインドはよく氷山に例えられるのですが、その氷山の海面の下の部分が隠されたマインドの部分に該当するのです。

そしてマインドが氷山に例えられるもう一つ大きな理由があって、それは氷山の見えている部分よりも海面下の方が圧倒的に大きいというところ。

マインドについても全く同じことが言えるのです。自覚できるマインドよりも自覚できない潜在マインドの方が、圧倒的に大きいのです。

更に言えば、潜在マインドの中身は全てが過去でできています。過去に溜め込んできた感情とそれに関連する思考群。

潜在マインドは、思考と感情のそれこそるつぼなのです。だからこそ、潜在マインドに焦点を当てて、そこを癒していくことがとても大切だということです。

子供という過酷な時代

今からかれこれ半世紀以上前のこと、小学生だった自分は家から数分の所にあるちょっとした丘のような空き地で遊ぶことがよくありました。

あの日もその場所で遊んでいた時、中学生かあるいは高校生くらいのお姉さんがやってきて、気さくに話しかけてきてくれたのです。

優しい感じのお姉さんだったので、たわいのない話しをして友達みたいになったのです。その後もその空き地で何度か会ったのです。

どうしてあの年齢の中高生のお姉さんが、何にもないあんな空き地に一人で来るのか不思議だったのです。

今思い返すと、どこかへ行く予定もなく、時間を持て余していたような気もするのです。もしかしたら、不登校だったのかな?

あるいは自宅に戻りたくない何らかの理由があったのかな?とか今となっては何の意味もないのに色々と考えてしまうのです。

これはセラピストとしての一種の職業病なのかもしれませんね。一般的に子供は無邪気、大人は苦労、というのがイメージとしてはあるのかも。

けれども、子供というのは大人に負けず劣らず様々な苦悩を抱えて生きているのです。子供は呑気などというのは真っ赤な嘘です。

今この瞬間も、たくさんの子供たちが家族という囲われ隠された環境で、様々な苦しみと共に必死に生き延びようとしているのでしょうね。

近過ぎて気づけない存在

あまりにも身近で、存在し続けてくれる大切なものなのに、そのことに気づかずにいるということはよくありますね。

一番例に出されるのが空気かな。たった数秒の間でも空気がなくなってしまったら、大変なことになってしまうのに、そのことを忘れています。

もっと言えば、この地球だって、太陽だって、そして宇宙だって、その存在があまりにも定常的であるために、当たり前になるわけです。

相手が人間でもそうですね。私は幼い頃に母親の存在が近過ぎて、好き嫌いを超越していたのを後になって知りました。

7〜8歳のころに、ボーイスカウトの夏の合宿で1週間ほど泊まりに行ったことがあったのですが、その時に生まれて初めて母親が身近にいないという体験をしたのです。

それは単なるホームシックというよりも、絶対的に必要なまるで自分の一部が欠落してしまった感じがして、合宿の間中生きていけない気がしていました。

近過ぎてその有り難さに気づけないのは、自分の本質についても同じなのです。独り静かに坐って、ゆっくりと内側を見つめてみるのです。

すると、自我としての自分が全面的に依存している存在、いつも見守ってくれている大きな存在に気づくことができます。

それを神と呼んでもいいし、私は自分の本質と呼んでいます。その全体性に抱かれていることで、たとえようのない安心感がやってきます。

それに気づかずに死んでいくのは、何とも勿体ないことだと思いますね。

見守ることは時空を超える

毎日の生活を通して、一瞬一瞬自分を見守り続けることが、どれほど大切なことなのかを理解している人は少ないかもしれません。

自分の存在を肉体だと思っている人は昔よりは減ってきたのかもしれませんが、それでも肉体を自分自身の中心だと思っている人は多いのでしょう。

しっかりと見守り続けることができたなら、あなたは決して自分のことを肉体だとは思わなくなるはずです。

なぜなら、肉体はあなたを見守ることができないし、見守っている主体としてのあなたは肉体ではないと気づくからです。

夜寝る前に、今日1日の自分を思い出そうとした時に、そのイメージの中に自分の肉体の姿が浮かぶのは当然です。

肉眼で見える自分は肉体だからですね。けれどもそれと同時に、見守り続けたのでしたら、見守り続けた自己のことも思い出すはず。

そしてその見守り続けた自分は、1日のことを思い出している今この瞬間の自分を見守っている自分と同じものなのです。

それは時間的隔たりもありません。見守ることは究極的には、時空を超えているということですね。

自我の得意技を放置する

より自然に、より自由に、より無邪気に、これらはどれも言葉は違えど同じことを表現していると言えますね。

どれも自我にとっては苦手なことばかりです。自我は不自然に生きるし、不自由さを常に感じているし、無邪気さを隠しがちになるのです。

逆に、自然に生きている人はただ自分のままでいることができる人。肩肘を張らずに、ゆったりとして柔らかい。

何者かになろうとするあらゆる悪あがきをやめてしまった人。闘わず、悠々として自分を見守ることができる人。

自由に生きるとは、究極的には自我から解放されて自由になるということです。自我は自分自身で作ったルールで自分を縛る。

だから無邪気さは邪魔になるのです。一方で無邪気な人は、ノールールで無防備でもあるのです。

実は自然で自由で無邪気に生きることを目標にしてしまったら、かえって不自然さや不自由さがやってきて、そして無邪気ではいられなくなってしまうのです。

目標を持つことで自我が活気づいてしまうからです。生後身につけてしまった自我の得意技を、放置することができたら、自然、自由、無邪気は自ずと向こうからやってきてくれるはずですね。

自我とエントロピー

エントロピーという言葉をどこかで聞いたことがあるでしょうか?理系の学生さんなら誰もが知っていると思います。

「エントロピー増大の法則」というのがあるのですが、「物事は放っておくと乱雑・無秩序・複雑な方向に向かい、自発的に元に戻ることはない」とあります。

例えば庭をきれいに手入れした直後の状態、これは秩序があるのでエントロピーが低い状態であると言うことができます。

一方で、その庭の手入れをせずにずっと放置しておくと、雑草が生えたりして汚くなって乱雑になってくるのを予想できますね。

この無秩序の状態のことをエントロピーが高い状態と表現するのです。放っておけば、物事は必ずエントロピーが低い状態から高い状態へと推移するという法則です。

直感的に誰でも容易にイメージすることができますね。ただこの法則、実は私たち自我が選択するということと関連があるのです。

選ぶこととエントロピーにどのような関連があるというのでしょうか?自我とエントロピーの関連なんて、理系の学生さんでも聞いたことがないかもしれません。

熱々のコーヒーが入ったマグカップ。この状態はエントロピーが低いのです。それを放置すれば、コーヒーは冷めて室温と同じになってしまいますね。

そうやってエントロピーが高くなるのですが、これは確率の問題でしかなく、実は自我が非常に確率の低い特殊な状況を選別しているのです。

秩序があるかないかというのは、自我による選択なのです。自然界には秩序という概念は存在しません。

時間が無限に続くのであれば、冷めたコーヒーがある瞬間にまた熱々の状態になることもあり得るということです。

現実には有限の時間内にこの宇宙は消滅してしまうので、そういうことは残念ながら起こらないのです。

自我だけが持つ秩序という概念が、無秩序との違いを見分ける、つまり選択的に見てしまうということ。

もしもあなたが無選択でこの世界を見たなら、エントロピーは単なる確率の問題ということになるのでしょうね。

女性性の時代に期待

男性性と女性性という言葉があります。どちらもそれぞれの性別の特徴的な傾向を表しているということですね。

例えば、男性性は攻撃的であり女性性は受容的という感じ。男性性は強さや堅さつまりは強固という特徴があり、女性性は柔らかさやしなやかさという感じです。

もちろん、男性にも女性に男性性があるし女性性もあり、どちらも人間社会には必要なものであることは間違いありません。

これまでの社会というのは男性性が中心となって作られてきたと言えるのですが、そろそろその限界が来ているように思います。

どれほどの達人であろうと、その人が頑なな感じがするのであれば、その人からは暴力しか生まれません。

この先人類が滅びずに存続するのであれば、その鍵となるのは女性性でしょうね。男性性が支配している限りは、いずれは戦争で自らを滅ぼすことになるはずだからです。

水のようにどんな形にでもなれる柔軟性があれば、争いごとからは遠のくことができることは明白です。

これまでのような発展発達、あるいは進歩に重点を置く代わりに、より自然体でより自由に生きることができる世の中になる方がどれだけ大切か。

これまで以上に女性の活躍を期待するというよりも、性別に関わらずに女性性を中心に活用する時代が来ればいいなと思うのです。