近過ぎて気づけない存在

あまりにも身近で、存在し続けてくれる大切なものなのに、そのことに気づかずにいるということはよくありますね。

一番例に出されるのが空気かな。たった数秒の間でも空気がなくなってしまったら、大変なことになってしまうのに、そのことを忘れています。

もっと言えば、この地球だって、太陽だって、そして宇宙だって、その存在があまりにも定常的であるために、当たり前になるわけです。

相手が人間でもそうですね。私は幼い頃に母親の存在が近過ぎて、好き嫌いを超越していたのを後になって知りました。

7〜8歳のころに、ボーイスカウトの夏の合宿で1週間ほど泊まりに行ったことがあったのですが、その時に生まれて初めて母親が身近にいないという体験をしたのです。

それは単なるホームシックというよりも、絶対的に必要なまるで自分の一部が欠落してしまった感じがして、合宿の間中生きていけない気がしていました。

近過ぎてその有り難さに気づけないのは、自分の本質についても同じなのです。独り静かに坐って、ゆっくりと内側を見つめてみるのです。

すると、自我としての自分が全面的に依存している存在、いつも見守ってくれている大きな存在に気づくことができます。

それを神と呼んでもいいし、私は自分の本質と呼んでいます。その全体性に抱かれていることで、たとえようのない安心感がやってきます。

それに気づかずに死んでいくのは、何とも勿体ないことだと思いますね。

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