内側には誰もいない

昔SFモノの映画で見たことがあったのですが、ごく普通に生きていたある人物が何かのきっかけで自分は人間ではなかったと気づくのです。

サイボーグと言えばいいのか、あるいはシンプルにロボットと呼べばいいのか、とにかく血の通った人間ではなかったのです。

その時の彼のショックというのは、計り知れないものがあるでしょうね。自分は人間だと深く信じて生きてきたのですから。

それに似たことがかつてあったのですが、それは自分自身の内面深くに入っていった者たちが、そこには誰もいないということに気づいたのです。

私たちは自分が人間であることを疑わずに生きています。それが本当なのかどうかを見極めたいとも思わずに。

それでも少数の人々は、やはりそこに興味を持って内側を覗こうとするのです。まずはっきり分かるのは、肉体の内側をどのように捜しても、この自分は見当たらないということ。

じゃあどこにいるのか?見つからないだけで実在するはずだとすることもできます。それなら、「我思う、ゆえに我あり」という言葉があるように、考えることで自分があるのだと。

そう捉えるとすると、自分とは思考の塊ではないかと考えることができます。けれども、そんな怪しげな存在でいいのでしょうか?

思考なんて吹けば飛ぶようなあやふやなモノです。そんなもので自分が出来上がっているというのも、どうも納得しづらいですね。

この辺りで、多くの人は諦めてしまうのです。けれども、諦めずにずっと追求していくと、人物らしきものなどないということに気づいてしまいます。

思考を止めてもそこに残るもの、それは人物などではなく、つまり人間などではない普遍的な何かでしかないのです。

それが私たちの本質なのですね。自我にとってはこれは非常に不本意なことですが、認める以外にありません。