こう毎日毎日、選択だ、選択しかないと言われ続けても、できないものはできないし、だからこそ困ってるんじゃないかと思われるかもしれません。そこをすっ飛ばして選択すればいいの一点張りでは無責任すぎるとお叱りを受けるかもしれませんね。
それは確かにそうですね。私自身もそれはよく分かっています。私たちが愛を選択できないというのは、愛を選択しない、もしくはしたくないという意思が裏で動いていて、愛の側に倒すスイッチを倒されないように握り締めている存在が自分の心の中にいるということです。
それが平たく言うとエゴなのです。一旦我々がエゴを選択してしまうと、今度はエゴがエゴそのものを永久に選択してもらうようにと我々をコントロールしてくるのです。その作戦にまんまとはまり込んでしまっているのが私たちだと言えます。
その様子は例えて言うと、生きる望みをなくして失意のどん底に落ちてしまったような人が藁をもすがる思いで、何らかの新興宗教に望みを託してみたところ、つまりそこの教祖さまを選択してしまった結果、ここはもういやだと思っても知らぬ間にそこから脱退できないようにコントロールされてしまうことに似ています。
もっとひどくなると、いやだということも分からなくなってここが一番すばらしいのだと、いわば洗脳されてしまうことにもなってしまいます。洗脳されてしまうと、脱退しようなどと思うことすらなくなってしまいます。
それこそ、エゴと自分の区別がつかなくなってしまっている状態と同じなのです。一体何を心の拠り所にして自分が正気なのか、何かに洗脳されてしまっているのか判断すればいいのでしょうか?
それは愛のことを思い出すしかありません。自分のありったけの想像力と叡智を使って、真の愛のことをイメージしてみて、それと自分の心の在り方がずれているならそれはすべて洗脳されているということです。
自分の心のスイッチが愛の方ではなく、もう一方の方に倒されてしまっていて、それを愛の方に倒し返す力がないとすると、一体どうしたらいいのでしょうか?
つづく