錯視について

みなさんは錯視というのをご存知でしょうか?錯覚を起こす視覚の特性のことをいうのですが、人間の視覚はものを正確に見ることができると思っていても、実際にはあるがままには見ていないのです。

しかも想像以上にひどい錯覚をしてしまうようにできているのです。同じ長さの線が違う長さに見えたり、同じ明るさのものが全く違う明るさに見えたりするのです。

動いてない図形が動いているように見えたり、見えていたものが突然見えなくなったりすることすらあります。

子供のころに、あるものをジッと見つめていると、周りのものが一瞬にして見えなくなってしまう経験をしていて、何だろうと思っていた記憶があります。

実は、人の目は静止している物体を見ることができないようにできているらしいです。しかし、それでは困るために、目自体が微振動をしながら静止しているものを捉えることで、見えるようにしているとのことです。

だから一生懸命見ようとして、凝視して眼球の動きを完全に止めてしまうと、逆にその静止しているものは視界から消えてしまうのです。

一体自分の視覚というのはどれだけいい加減にできているのだろうとびっくりしてしまいます。そういった人の視覚の特性を利用したおもしろいものがありました。

以前あるテレビ番組で見たことがあるのですが、ある人物画を近くから見るとアインシュタインの顔に見えるのですが、徐々に離れて行ってある程度の距離になってくると、次第にマリリンモンローの顔に見えてくるというのがありました。

ものをあるがままに見るというのは、自分独自の判断や解釈をしないで受け止めるという意味の比喩ですが、その前の段階ですでに物理的にもそのままを見ることすらできないのが人間なんだということです。

錯視について少し興味を持っていろいろ調べてみたおかげで、今まで以上に自分の感覚におごることなく、謙虚に何事も受け止めるべきなんだなと改めて思うのです。

諦めない

日頃、裁かない、分析しない、相手のエゴの作った土俵に上がらない、無防備に、ということを心がけているはずなのですが、そこそこうまくできる時と、どうしてもダメな時があります。

その違いがどこから来るのかはまだまだ検証できてないですが、自分の場合はやはり相手になんらかの期待をしてしまうと、分析が始まってしまうようです。

分析はよほど注意しないと裁くことに直結してしまいます。それは、自分の心が愛で満ちてないからこその分析ですから、裁いてしまう事になったとしても当然かもしれません。

そして、相手のエゴの作った土俵に…というのは、そそのかされて相手と同じ怒りに意識を向けてしまうということです。

分析すれば、そこから当然防衛に繋がるような結果が出てきてしまうために、怒りが防衛の手段として使われてしまうということです。

その場でその怒りを感じきるというのはとても難しいことです。それよりも、その怒りが出てきたことを承知しながら穏やかな自分を選択する方が懸命ですね。

自分の場合は、どうしてもダメな時にはもう一度、奇跡のコースを読むことにしています。そうすると、また心がリセットされるというか、期待のない状態に戻してもらえるのです。

そうなってしまうと、大抵のことには相手のあるがままを受け入れられるようになります。このときも、エゴはブツクサ文句を言っているのは分かります。

しかし、そういう愛の対応を自分ができたときは、必ず相手の態度がエゴから愛へ急変してくれます。人は助言よりも愛が欲しいのですね。

分かってはいるのですが、ついうっかり忘れてしまい、またいつものごとく分析してしまいます。諦めずに、この繰り返しから早く脱出したいと思います。

笑いに転嫁

私はお笑いが大好きです。仕事で海外に少し長めに行かなくてはならなかったときに、しばらくして何だか物足りないなと思い、そうだ日本のお笑いが恋しいのだと気付いたことがありました。

笑うというのはとても気分爽快にしてくれますし、横隔膜が振動することでそれだけで結構な運動になったりもするみたいです。

少しぐらい気分のすぐれないようなときでも、大笑いしてしまえばその後はカラッと元気になれたりもするのでとても便利です。

しかし、笑いの中にはちょっと変わった笑いがあります。ある意味、ホンモノの笑いとは違うニセモノの笑いがあるのです。

多くのクライアントさんとのセッションの中で、たまにあることなのですが、ご自身の過去の悲惨な出来事をお話ししているときに、泣いてしまうのかなと思いきや、逆にケラケラと笑い出す人がいるのです。

あるとき、あまりに不振に感じて、何か面白いことがありますかと聞くと、ご本人はなぜか分からないが笑いがこみ上げてきてしまうということでした。

これは実は本人も自覚のない無意識の中で、あまりに辛い体験を思い出してその時の本当の感情に触れるのが怖いために、その感情を笑いに転嫁してしまったのです。

そして笑いに転嫁されてしまう感情は恐怖だけではなく、悲しみや怒りなど、ほとんどのネガティブな感情に対して起こりえます。

催眠療法のセッション中にも、何度も同じような経験をしたことがあります。そして必ずご本人はなぜ自分が今笑ったのか聞かれてもはっきりと答えることができないのです。

困ってしまったり、降参するときなどもこの笑いを使う人がいますね。これも全く同じようにおかしくて笑っているのではなく、その時の本当の感情を味わうのがいやなので笑いというある意味逆の感情に変えてしまうのです。

本当は笑いたくもない状況であるにもかかわらず、気がつくと笑っているということがなかったでしょうか?もし、思い当たる事があるのでしたらその時どんな感情から逃れようとしていたのか見つめてみることは、癒しにとってとても大切なことだと思います。

迷惑をかける

多くのクライアントさんとお話しをしていると、みなさんに共通する心情とか信念のようなものがあるということが分かります。

その代表的なものが、「人に迷惑をかけない」で生きるというものです。それさえ守れれば、後は自己責任において何をしてもいいんじゃないのかということです。

自分も若い頃にそんなふうに思っていた記憶が確かにあります。だからその気持ちはとてもよく分かるのですが、今となっては人に迷惑をかけないでいても自分が幸せでなければ何の意味もないと思うようになりました。

人が一人生きていれば、それは自覚できようができまいが必ず何らかの迷惑をかけて生きているのです。これは避けられない事実です。

勿論故意に迷惑をかけてやろうとすることは論外ですが、そうでなくとも誰かに自分のせいで迷惑がかかってしまうというのは仕方のないことです。

迷惑をかけた最も初期の事といえば、例えば第二子が生まれる事でそれまでナンバーワンでいた第一子の立場は脅かされてしまうことになりますね。

つまり、弟は誕生と同時にお兄ちゃんに迷惑をかけているということです。人は誰でも、互いに常に利害が一致するなどということはありません。誰かが得すれば誰かが損をするというのがこの世界の掟です。

人に迷惑をかけたくないという思いは、実は思いやりの心からくるものではなくて、自分を防衛しようとすることから発生する思いなのです。

だからこそ、迷惑をかけないからといって幸せになれるわけではないのです。殊更に迷惑をかけることに過敏になるのは、エゴの反応であるということを知る必要があります。

それを最優先すると、必ず自己犠牲が発生してしまいます。迷惑をかけてはいけないという消極的な気持ちで生きるより、自分が相手を許すのと同じように相手も自分を許してくれるに違いないという思いが大切なのです。

楽しいと楽の違い

普段私たちが使っている漢字の種類は膨大にあるにもかかわらず、「楽しい」と「楽(らく)」を同じ漢字で書くというのは不思議なことです。

というのも、楽しいのと楽なのは根本的に違うからです。突き詰めて考えることがなければ、何となくニュアンスが違ったとしても似たようなものなんじゃないかなと思ってしまうかもしれません。

しかし、実際には楽しいというのは、そこに喜びが一緒にあるように思います。しかし、その時に同時に楽だなあというニュアンスはあまり見当たりません。

楽の逆にキツイとか、苦しいなどということが楽しいと共にあってもいいように思います。楽しいというのは、100%心の状態を表現しています。

ですから、仮に心が楽しんでいたとしても、身体がきつかったり苦しかったりすることはいくらでもあるのです。

例えばスポーツ全般に言えることですが、マラソンが趣味で楽しんで走っているときに、身体が楽という事はあり得ないですね。

一方、楽というのは主に身体に対しての表現である場合が多いように思います。なので、楽な状態であっても、必ずしも心が楽しんでいられるとは限りません。

お風呂に入ってゆったりくつろいでいる時は、確かに満員電車の中で汗をかきながら到着を待つよりも楽です。

でも湯船の中で明日の仕事のことで心配ごとをあれこれ考えていたら、それは決して楽しい時間ではなくなってしまいます。

結局、楽しいと楽の違いは、心と身体のどちらに意識が向いているかということに深く関連しているということかもしれません。

身体がいくら楽な状態でも人は幸せを感じることはありません。幸福感は楽しさや喜びなどの心の状態からくるものだからです。

あなたは楽しい人生を送りたいですか?それとも、楽な人生でしょうか?きっと自分が目指すほうの人生になっていくはずです。

許さずにいる心

この世界のありとあらゆる不幸、苦悩の根本的な原因はたった一つ、それは許さずにいる心です。このことが本当の意味で分かるのに随分と人生のいいところまでやって来てしまいました。

もっと早くに分かっていれば、という気持ちも許すことですね。誰の心の中にもある、この許さずにいる心の部分は相当に頑張って突っ張っているようです。

ほとんどの人がこれを持ったまま死んでいくところを見ると、それは相当に頑固だし命をかけても許さずにいることを守り抜こうとしているように感じます。よほど根が深いと言わざるを得ませんね。

仮に、どんな自分でも丸ごと許してくれるという人が自分のそばに一人いたとしたらどうでしょう。にわかには信じられないでしょうけれど、よくよく相手を観察しているとどうも本当に常に許してくれていると分かったとしたら自分はどうするでしょう?

それは本当に救われると思いませんか?私たちは何かあったら許してはもらえないと信じて生きているのです。だからいつも心はヒヤヒヤしています。

なぜ許してはもらえないと固く信じ込んでいるかといえば、自分の中に許さずにいる心があることを知っているからです。相手だってそれと同じに違いないと思い込んでいるのです。

だからその思い込みが間違っていたということを知ったら、心が開放されて許さずにいる心からそのパワーが失われていくはずです。

それはちょうど、相手と激しく言い合いをして喧嘩をしてるときに、相手が急に謝ってきたとしたら相手をののしるパワーが一気に減少してしまうのと同じです。

それなら、相手が自分を許してくれるのを気長に待っている必要はないということですね。つまり、自分が相手を許さずにいる心を手放してしまったら、きっと相手も自分を許すということになるということです。

だからみんなに許してもらいたいのなら、まず率先して自分が周りを許してしまえばいいということです。本当は、許してもらう嬉しさよりも、自分が相手を許すことの方が1000倍も歓喜がやってくるのです。

作務衣

最近、時々作務衣を着てセッションをするようになりました。以前から、ヒーリングのセッションのときにできる限り身体をリラックスさせたいという思いがあり、できたら作務衣がいいかなと思っていたのです。

ただ、初めていらっしゃるクライアントさんと対面するときに、どう思われるかなという一抹の心配があったために、二の足を踏んでいたのです。

初めてお会いする人には、なるべくどこにでもいるごく普通の人という印象を持って欲しいと思っていたので、どこにでもあるシャツとズボンという格好でずっとセッションをやってきたのです。

それが今年に入って、講座を開くようになってから、講座でならいいかなという思いから作務衣を着るようになりました。

一度着てしまうと、これがとても快適でして、特にヒーリングをするときにはもうズボンを履く気がしなくなってしまったくらいです。腕を動かすときにも、とても自由な感じがします。

元々何か作業をする際に便利なように考案されたものなのでしょうから、快適なのは当たり前ですが、日本人の技というのはこういうところにも現れているのかもしれませんね。

最近、着心地のいい素敵な作務衣をプレゼントしていただいたこともあって、以前よりも増して作務衣を着たくなったというのもあるのですが、徐々にシャツとズボンという今までのスタイルから遠ざかっていくような気がします。

多少自分が開放されたのか、初めてのクライアントさんの時でも作務衣でお出迎えするようになるように思っています。

10年前の自分が、今こうして作務衣を着て仕事をしている自分の姿を見たら、どう思ったのでしょうか?そう考えてみるととても不思議だし、笑えてきます。人は変わるものですね。

なにげない幸せ

「女心と秋の空」ということわざがありますね。女性の心は日本の秋の天気のように変わりやすいということを言っているのですが、殊更女性についてだけ変化しやすいというのは信憑性に欠けますね。

実際、「男心と秋の空」ということわざもあるらしいです。男女問わず、人の心というのはそのように一定していないものであることは疑いようのない事実です。

さっきまで気分爽快だったのに、なんだか急にいやな気持ちがしてきてみたり、落ち込んで泣いていたのに、ゲラゲラ笑い出すなどということもありますね。

その変化の幅が少ない人は感情の起伏が小さい比較的静かで穏やかな人だし、変化の幅も時間的な変化の量も大き過ぎると、自分でもその変化についていくことができずに疲れてしまうかもしれません。

そうした気持ちの変化の中で、何があったというわけでもないのに、何となく自分は幸せだなと感じるときがあります。

宝くじが当たって嬉しいとか、欲しかったものが手に入って有頂天になるとか、そういった外的な事象が何もないにもかかわらず、ただ不思議となにげない幸福感を感じるのです。

それは大騒ぎしたいわけでもなく、それほど強く迫ってくるものでもないのですが、でも確実に自分の心の中でそれは起きています。

その時に、自分がいつも考えることは、○○で幸せだなとか、○○が嬉しいなとかいうものですが、その○○は実は常にあるものなのです。

例えば、自分は今穏やかな気持ちでこの本と向き合っている時間と意欲があって、何て幸せなんだろうというものだったりします。でもそれは毎日起きている当たり前のことなのです。

そんなことでも、その幸福感がやってくると、嬉しいことに思えてしまうわけです。こうして、このブログを書いている今も結構な幸福感がやってきてくれています。

それは人に説明したら、なんでそんなことと言われてしまいそうな事ですが、でも内的な満足こそが幸福感を作り出すのかもしれません。

このなにげない幸せは、時々やってきてくれるのですが、いつもというわけではないのが残念です。でも心の癒しをするなかで、そうしたことが少しずつ増えてきているのかなと思うこのごろです。

戦略的生き方

昨日のブログでは、心が満ち足りればそれだけ未来の計画に興味がなくなっていくというお話しをしました。愛は今だけが実在と分かっているからですね。

そのことと深く関連するのですが、計画的に生きるということをもっと進めてエゴ的な要素を増していくと、戦略的に生きるということになるかもしれません。

それは、これから生きていく未来の自分の人生で損をしないように、失敗をしないように、最も効率的に成功するようにと頭を巡らして計画することですね。

そして他人よりもなるべく自分が有利な状態になれるように常に考えながら生活していくということでもあります。

戦略的であろうとすると、どうしても取引的な考え方が強くなるようにも思います。何につけ、自分一人の力に頼るよりも他人の力も利用する方がはるかに効率がいいからです。

そこには愛の要素が足りないため、人を協力させるためには必ず取引という発想が出てくるということですね。

社会のメカニズムはこのようにして成り立っているのです。ですから、そこで成功しようとする人はどうしても戦略家としての手腕が必要になります。

取引をするにしても、なるべくなら自分が有利になるような取引を画策するはずです。あまりにもエゴ的要素が強くなりすぎてしまうと、いくら有能であってもやはり敬遠されてしまいます。

本人はそれでも自分は成功者だと誇らしい気持ちでいることができるのでしょうけれど、心の奥はとても寂しい状態になってしまうはずです。

今に意識を向けていられれば、戦略的になる必要は全くないことが分かります。愛は取引を知りません。ただ愛で人と繋がっているだけだからです。

身体と心の力を抜いて、今この瞬間に意識を向ける訓練をすることです。そうすれば、未来に気を揉むことも少なくなり、自然と周りに愛を与えることになっていくはずです。

未来の計画

私たちは程度の差こそあれ、大抵は自分の人生の未来を計画しながら生活しています。仮に人生に絶望して未来が真っ暗だと感じている人がいたとしても、それは計画ができないから真っ暗だと言っているのです。

なぜ、未来を計画するのかと言えば、今この瞬間に十分な満足をしていないからに他なりません。今もしも、完全な愛の中、完璧に満ち足りた心でいられたならば、一体何を明日以降に計画する必要があるでしょうか。

明るい未来を夢見て、人生の計画を立てようとするのは、今に100%の満足をしていないからです。そこには確実に未来に対する不安があるわけです。

完全に満足している平安な心には、未来に対する不安などこれっぽっちもあるはずがありません。あれば満ち足りてはいないということを意味するからです。

勿論完全ではないにしても、現在に満足していればいるほど、未来を計画することから離れていくはずなのです。愛は未来を必要とはしないからです。

私たちの人生は、大きな宇宙レベルでのシナリオ通りに推移していると思って下さい。些細な部分では小手先で変えることができたとしても、大筋ではすでに決まっているのです。

人生の未来がどうであるにせよ、今この瞬間の自分の心が平安でいられたら、それで完璧なのです。他には何も望むことはなくなるはずなのです。

未来の計画を立てることは、自分の心が愛に満たされていけばいくほど、興味のないこととなっていくでしょうね。

本当には、私たちには今日だけがあるのです。それは、人を助け、人を許し、自分を許すためだけに。そのためにのみ人生があるということです。