狂気の心

人は時として普通の常識では考えられないような言動をすることがあります。そういう人がもしも自分の近くにいるとしたら、それは最大級の癒しのチャンスなのです。

その人がある意味気違いじみた言動を取るときには、その人は自分にその人を祝福する機会を差し伸べてくれているのです。祝福とはただ愛を送ることを意味します。

私たちは大抵の場合、言葉と言葉で通じ合い、言葉を介して分かり合おうとしますね。でももっと深く分かり合おうとしたら、そこには言葉を必要としないだろうということを知っています。

相手が言葉を理解しない動物だったとしても、互いに心が通い合うことによって本当の意味での意志の疎通ができるものですね。

その人が必要とするものというのは、自分にとっても必要なものなのです。自分がその人に対して差し出せる祝福を自分自身が必要としているということです。

自分がその祝福を得る方法は、祝福を相手に与えることをおいて他にはありません。これこそが愛の法則であって、それに例外は無いのです。

自分が何かを否定してしまうと、自分自身それを欠くことになるのです。それは、その何かが不足しているからではなくて、だれか他の人のなかにあるのを否定してしまったために、自分自身のなかにあるのに気づくことができなくなってしまうのです。

自分が相手にどう応ずるかはことごとく、自分を何であると思うかによって決定されるし、自分がなりたいと思うもの、まさにそれが自分だと思い込むのです。

ということは、自分がなりたいと思うこと、それがその都度自分がどう応じるかを決定するに違いないのです。