許さない理由

私たちの毎日の暮らしの中で、許しを実践するチャンスがない日はありません。出かけて忙しく動き回っている時でも、じっと部屋に篭っている日でも、例外なく許しを実践することができます。

許しこそが癒しの本質だし、真の幸せへのポスポートであることは明白になっているというのに、実践しても実践してもやっぱり思ったようにこれで完璧というようには許すことができないのはなぜでしょうか?

許すということを意図し続けながら心の中で人との関係を見つめていると、自分の本当の気持ちを曖昧にしてごまかすことができなくなってきます。

もっと簡単に言えば、許そうとしたときに何らかの抵抗が心の中に沸き起こるのを感じることができるのですが、そこにこそ自分の隠していた本心があるということです。

こうした隠された本音というのは、許そうとしない限りなかなか感じることはできないのです。そうやって沸き起こってきたものをしっかり味わっていると、ははあ、なるほどなと納得することがあります。

そこには大抵の場合、恐れが潜んでいます。その恐れから防衛しようとしている自分を発見できるのです。そして、その防衛のための方法が多岐に渡っているということも見えてきます。

その一つひとつを自分が相手を許そうとしたときに、代わるがわる出てきてくれるのです。それはもう面白いように様々なレパートリーを持っています。

つまり、許さない理由とは恐怖から自分を防衛し続けたいからなのです。潔く許してしまうと、自分を防衛できないと思い込んでいます。

ですから、どちらを選択するかといえば、考えるまでもなく結果は明らかなのです。かたや防衛して自分を安全に保つ、そしてもう一方は相手を許さず罪深いと断定すること。

この二つを天秤にかけるなんて、それこそナンセンスなわけです。だから生きてる理由は許すためだと理性でいくら分かったところで、許しの方を選択することが難しいと感じるのは当然なのですね。

何度繰り返しても許せないのは決して責められることではありません。私は許そうとする意欲さえあればいい、それだけでもいずれは必ず許しのエキスパートになれるはずです。

その時を楽しみにして、毎回許しの実践を心躍らせながら続けていこうと思います。