苦難が大好き

我々はみんな苦しいことは嫌いですし、苦しみから逃れようとこそすれ、苦痛を望むなどということはないと思っていますね。

それなら、なぜゆっくりと柔らかなソファで寝転んでるばかりではなく、厳しい雪山に登山しに行く人がいるのでしょうか?

そこに山があるからだというのは有名な言葉ですが、それでは本当の理由を説明してはいないことは明らかです。

頑張って諦めずに登った末に頂上に立ったときの何とも言えないあの気持ちを味わいたいから苦痛に耐えて登山をするのだと言う人もいます。

確かにそういうことはあるでしょうね。私も頑張って長距離を連続で泳いだり、そのあと100℃のサウナで汗を流すのは、その後のビールがおいしく飲めるからというのがありました。

しかし本当にそれだけでしょうか?登山の過程がどれほど苦しくても頂上に着いたときのやり遂げた感や征服感を味わうことだけが本当の目的でしょうか?

私はそうではないと思っています。目的を達成するまでの過程における頑張りや苦悩、そこにこそ麻薬のような魅力があると思うのです。

それは言って見れば、自分は『何か意味のあることをしている』という充実感であったりするわけです。ただ安楽にのんびりしているだけでは不安があるということです。

過程における苦しみや辛さが半端じゃないものであればあるほど、そこに価値を見出すことができるのです。それが麻薬なのです。

それが社会的にも意味のあるもの、例えばオリンピックで金メダルを獲得するとか、ノーベル賞を受賞するとかの結果を出せば、その麻薬的な魅力は社会的な成果を生むものとして認められるのです。

しかし社会的にも何にしてもその意味を認めてもらえないようなもの、例えばただのやせ我慢だったり、ただ本人の心の中で苦悩しているような場合には、ただひたすら苦しい人生を送っているということになってしまいます。

なんだか人生が辛い、苦しい重荷を背負っているような気がするというのでしたら、苦難に耐え続けることに意味があると思っている心の部分があることを疑ってみて下さい。

その意識の存在に気付いてあげて、もういいよと丸ごと認めてあげることができたら、本当に重かった巨大な荷物を降ろして軽やかな人生に変えることができるのです。

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