私達は幼い頃より、悪いことをすると罰(ばち)が当たるということをよく言われてきました。罰(ばち)などと言う言葉は今や死語になりつつあるのかもしれませんが。
人間のレベルなど遥かに超越した神様や天使やその他目に見えない存在の裁きにあって、罰(ばつ)を与えられることを罰(ばち)が当たるというのですね。
無邪気な子供は自分が悪いことをすると一体どんなばちが当たるのか、それが怖くてできるだけ悪い事をしないようにと躾けられるわけです。
それの最上級の表現が、悪人は死んだ後地獄に突き落とされるというものですね。それも怖いので、生きてる間になるべく品行方正にしていようと思う人もいるかもしれません。
特に昔、信心深い人などはそうだったかもしれません。そういう考え方には、神様の怒りに触れてしまうということも含まれています。
神仏などを擬人化して、我々人間のように感情を持っていて、悪い人に対して怒りを覚え、厳罰に処するということを考えるわけです。
少し冷静に考えれば、人間を超越した大いなる存在がこんな卑小な人間と同じ怒りなどの感情を持っているはずがないと分かるはずです。
きっと心の中の恐怖が大きかったり、特定の宗教的な教義などによってある種の洗脳をされてしまうことで、そういった馬鹿げた思い込みを持ち続けてしまうのかもしれません。
善悪、正不正などの概念や怒り、憎しみなどの感情を持っているのは人間です。神仏という存在があるとすれば、そういった人間臭い部分など持っているはずがないのです。
つまり、罰(ばち)が当たるなどということはあり得ないということです。それは、人の罪の意識が作り出した幻想に過ぎません。
神の裁きというものがあるとすれば、それはあなたがどんなことをしたとしても、そのことに罪などありませんよ、ただ間違いを訂正するだけでいいのです、と教えてくれるということです。
神は悪い行いということを認識しないはずです。それは人間が考え出した概念に過ぎないからです。罪というものを意識して人を裁くのも人間以外にはありません。
もしも心が愛に溢れていたら、決して裁くということを考え付かないはずなのです。出来る限り、愛を持って人を見ることができるようになれたらいいなと思います。