一体だった頃への執着

人は大抵互いに気の合う者同士でいる時に心地いいと感じます。物事の考え方や主義主張や信条、何かに対する意見、あるいは趣味や趣向、そういったものが同じだと嬉しいのです。

個人というのはそれぞれに独立した個体であるわけで、だからこそ姿かたちや指紋や性格にいたるまで、同じ人というのはいません。

つまり個別性というのは互いに違っているということが前提なわけです。それにもかかわらず、自分と同じようなものを相手にも求めてしまうのです。

人が何人か集まったときに、みんなの意見が揃うと気持ちがいいものですね。自分が思っていることと、相手が思っていることが同じだと嬉しくなります。

逆に、意見が食い違っていたり、趣味や趣向などが違っていたりすると、当然話しもさしてはずまないですし、何となくつまらないような気持ちになってしまいます。

私達は本来、その違いを超えて相手の気持ちや考えを受け入れることができます。言葉を変えれば共感することができるのです。

自分の気持ちを分かって欲しいと訴えている人を、丸ごと受け止めてその気持ちに深く共感することができると、その人は穏やかな気持ちになりますね。

ところが、もっと心の奥の本心では、受け止めてもらうだけではなく、自分と同じ気持ちになって欲しいと願っているのです。

特に、心の多くの部分にまだ依存が強く残っている人の場合には、こういった傾向が色濃く出ることになるのです。

その理由は、依存心というのは、すべてが一つであると感じていた赤ちゃんの頃への強烈な執着からくるからです。

この現実では、残念ながら成長するにつれて、身体も心も一人ひとり別々だということを思い知らされるわけですが、赤ちゃんのころの一体感への郷愁、強い執着が個別性を感じたときに悲しく、そして寂しい気持ちにさせるのです。

だからこそ、自分と同じものを求めてやまないのです。この気持ちの正体をしっかり見据えることが、依存から自立へと進むためには絶対に必要なのです。