囲い込み

世の中には第三者の人のことを悪く言ったり酷評して批判する人というのは大勢います。それこそ著名な評論家の方から無名の自称評論家まで様々です。

否定的な事柄というのは最低でも本人に言う場合はまだしも、本人のうかがい知れないような場所などで公表するのはどうなのでしょうか。

そこに愛があればまだいいのですが、恐怖や憎悪ばかりですとどこにもいい結果を生み出す要因を見つけることができなくなってしまいます。

一般的に人はそういう人たちが公表する第三者に対するネガティブな情報を信じやすいものです。有名人のゴシップ記事などが興味を持って見聞きされるのを我々はよく知っていますね。

インターネットが普及するようになって、そうした第三者を糾弾するような情報というのが簡単に一人歩きするようになってしまったとも言えます。

私はそうした人たちに公表された情報がどんなに信憑性のあるものに感じたとしても、酷評された人よりは酷評した側の人の心の闇を感じてしまいます。

そこには大抵怒りや憎悪などの否定的な感情が渦巻いているからです。実は私が囲い込みと読んでいる心の状態がそこにはあります。

つまり、相手への憎悪を持っている自分を正当化するために、味方を作ろうとするのです。相手と自分の一対一の関係では不安なために、そこに別の人たちを巻き込もうとするのです。

そしてできるだけ多くの人たちを自分と同じ気持ちにさせることにより、つまり多くの人たちを自分の憎悪に巻き込むことで安心しようとするのです。

そのとき、一番の被害者は酷評された人よりも巻き込まれてしまった人たちなのです。その人たちはたった一人の憎悪によって、同じような憎悪や裁く心を持たされてしまうからです。

内容がどんなに真実味があろうと、どんなに否定的なものであれ、当事者がそこにいない状態で公表されたものはそれを聞き流すことです。

その内容に同調したり、翻弄されてしまうと自分自身もその内容を公表した人と同じレベルの病みを持ってしまうことになるからです。