便利さの価値

自分は子供の頃から合理的なものの考え方や合理的な事をとても好む傾向がありました。そしてそれは当然便利なことやものへの興味へと発展していきました。

小学生くらいのときに考えていたのは、誰でも身につけられる腕時計くらいのもので、家中の電化製品をすべてコントロールできたり、今のケータイの役割を持ったりするものが発明されると思っていました。

その頃見ていた子供向けのテレビ番組などの影響があったのだと思いますが、結構真剣に未来を想像したりして父親にそのことを話したりしていました。

今から30年くらい前の、社会人になってすぐのころ、21世紀になるころには新聞配達というのはきっとなくなるという話を職場の先輩に話してたことを覚えています。

これは当たりませんでしたが、はがきや手紙の代わりに電子メールが普及するようになったし、いまやニュースはネットで読むという人も増えています。

きっと単行本のようなものは消えていき、代わりに電子ブックが標準的なものになると思っていたのは完全に予想通りになりつつあります。

ところが、合理的で便利なものを考えるのは本当に楽しいことなのですが、最近はあまり考えなくなってしまいました。

それは便利さや合理的なことに、以前ほど大きな期待を感じなくなってしまったからだと思います。そしてその理由は自分の中ではかなり明確です。

それは、やはりそういったことが自分の心の幸せとは結びつくものではないということがはっきりと分かってしまったからなのです。

私の予想では、あと数十年たつと、一家に一台、聞けば何でも応えてくれるロボットさんがいるのが当たり前になると思っています。

世界中のすべての情報とネットで繋がっていて、人の話す言葉を理解し、質問に対して瞬時に答えを見つけて言葉で教えてくれるはずです。

寂しい独り暮らしの人の心の友になってくれるかもしれません。それでも、自分の幸せには寄与しないだろうという予想がつくのです。

便利さや快適さが全く不要ということではありませんが、幸せは周囲にころがっているわけではなく、ただ与える心の中にしかないということです。