比較すること

私達は人と人やモノとモノなどを比較してしまう習性を持っています。比較する事によって、それらが別々の個体であるということを証明するわけです。

そして別々の個体というのは本質的に互いに違いがあるということによって明確化されるのです。この世界のすべてが比較することを基本として成り立っているとも言えますね。

確かに地球上のすべての人は互いに違う顔形、姿をしていますし、誰一人として同じ指紋を持っていることはないと言われています。

比較することをしなければ、人を見分けるということもできなくなってしまいます。ですから、比較することの意義は個別性を見出すということであるとも言えます。

ところが、我々は比較する目的としてただそれだけではなく、比較した結果に何らかの意味を見出そうとしてしまうのです。

そこにあらゆる苦悩の元が隠されています。比較した結果、優劣をつけてしまったり、真偽や善悪などを付加してしまうのです。

それが価値の有無あるいは大小を判断することに繋がっていくわけです。私は小学生の頃、学校の給食を食べるのがクラスで一番遅かったのです。

その時の自覚としては、何しろまずくて食欲が湧かないのですが仕方なく食べているという感じでした。そのため唾液が出ずらくて噛んで飲み込むまでに時間がかかってしまったのだと思っています。

ですが、食べるのが友達と比べて一番遅いということに優劣で言えば劣という判断を自分なりに下してしまったのでしょうね。

ゆっくり時間をかけて噛むことは決して悪い事ではないのですが、遅いのは男の子としては何となくみっともないという感じがあったのかもしれません。

意識的に早く食事を済ませるように自分なりに癖をつけていくことで、次第にみんなと同じペースで食事をするようになっていきました。

そして、10代の中ごろになるまでには、普通以上に早く食べるようになってしまっていましたが、そのために慢性的に胃弱になったのかもと思っています。

あの時に食べるスピードの違いには何の意味もないのだということを理解できるような日本の文化であったらよかったのにと思ったりします。