理屈に合うか合わないか

自分は子供のころからかなり理屈っぽい少年だったと思います。理屈に合わないようなことを言ったりやったりする人を見ると、たとえ大人であったとしてもすごく抗議的になっていたと思います。

そうやって大人になった今でも理屈というものがとても大切なものとして、心の中心にあるという自覚があります。

この理屈というものは、最終的には正しいか正しくないかという結論を生むものですね。どちらでもないという結果を求めているわけではありません。

理屈に合うものが正しくて、理屈に合わないものは正しくないとするのです。それは意味を拡大していくと、正不正だけではなくて、真偽、善悪、そういったことまで含むようになります。

特に理屈に合わないものは、理不尽さという感覚に変わることもありますし、価値のないものという判断を下す材料にもなっていると思います。

しかし、理屈に合うか合わないかということに価値を置く生き方そのものに意味を見出していると決して幸せになれないということがはっきり分かってしまったのです。

それで今は物事を見るための新しい方法を作りつつあるところです。それは、理屈に合うか合わないかを見る代わりに、愛があるかないかを見ようとするようにしています。

理屈に合っていてもそこに愛が見えなければ自分にとっては意味がないし、逆に理屈に合わないことでもそこに愛が見えるならそれはとても価値のあることだとするのです。

そしてどうやら、理屈に合わないことの方が、そこに愛を見いだせることが多いということにも気づいてしまいました。

きっと愛は理屈に合わないことの中にこそ、その役割を見出せるということなのかもしれません。みなさんは理屈に合わないようなことにどう対処していますか?

そこに他の人や自分の愛を見ようとするのか、理屈に合わないことだとして却下してしまうのか、どちらを選択するかはあなた次第ですね。そして、それによってより幸せが近づいてくるかどうかもあなた次第だということです。

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