科学的態度

科学者の態度とは、基本的には何も信じないというものです。つまり、信じるのではなくて、観察や観測という実験を重ねて、決して疑いようのない結果が出るまで繰り返します。

一万回のうち、一回でも疑いが残る場合には、証明したことにはならないわけです。従って、出た答えは信じる対象ではなくて、事実だということになるのです。

私自身はこうした態度、科学的な態度が大好きです。曖昧な部分を全部疑って、それをはずしていった先に残るもの、それが確実なものであり、真実であるとの立場をとるのです。

だから、ただ信じなさい、信じるものこそ救われるといくら言われても、また言われれば言われるほど釈然としない気持ちになってしまうのです。

幼い頃に頭ごなしに、これが正しいに決まってるというような態度の大人に出会うと、それを完全に否定するか馬鹿にするかしていました。勿論心の中での話しですが。

そうした傾向というのは、今でも残っています。但し、最近は信じないで疑うというよりも、それらを脇に置いておいて、ただ受け入れるということもできるようになってきましたが…。

ところで、科学と科学的態度とは違います。科学とは、科学的態度で検証されてきたことの結果積み上げられたもののことを言うのです。

私はどちらも好きですが、科学の限界というものをはっきり感じています。それは最近科学的態度で真摯に実験をしていたときに、そのことに気づいたのです。

科学がどんなに頑張っても入って来れないところ、それは私の本当の自分です。私を一般に知られている一人の人間とすれば、科学はかなりのところまで迫ってきています。

最も複雑である脳の中身や働きについても、だいぶ分かってきましたし、心の作用についてもさまざまな検証によって解き明かされて来ています。

ところが、決して入ってくることができないのは、私に一番近い部分、この私だけが内側から見ている私自身についてのこと。これだけはどうしても科学には無理なのです。

なぜなら、科学というのは客観的観測がそのベースとなっているからです。私の内側を内側から見るということは完全なる主観であり、そこには科学のメスが入る隙間もないのです。

そうしたことを理解したうえで、私はできるだけ科学的態度をもって内側を観察したいのです。つまり、誰かから教わったり信じるように言われたことを全部疑ってかかるということ。

その結果、残るものが本当の自己についての真実になると思えるからです。そして、結果はきっと誰もが本当は分かっていることであり、それと同時に驚くべき自己がそこにあると思うのです。

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