部分を見れば苦悩する その2

昨日のブログでは、私たちは全体の中の部分だけを見ることによって、苦悩することになるというお話しをしました。

そのことについて、もう少し補足したいと思います。私たちの傾向は、全体よりもその一部分である個人としての自分の幸せを目指しています。

したがって、私という個人が苦悩することを目標にすることはありませんので、苦悩を拒絶するようになるのは当然のことです。

ところがこの拒絶こそが自分を不幸にする根源なのです。拒絶というのは、言い換えれば恐れであるとも言えるのです。

恐れとは愛の欠如であり、そのときには苦悩は耐え難いものと感じるようになってしまいます。それこそが不幸なのです。

逆に、部分である個人の代わりに、全体性を見るようにすることで、現実は一変します。勿論苦悩がなくなるわけではないのですが、それにOKを出すことになるからです。

拒絶する苦悩と、受容される苦悩には大きな違いがあります。全体性の中で生きることができれば、あらゆる苦悩を抱きしめることができるのです。

私たちは非常に小さな個人という部分に、自分の視野を限定してしまったのです。それこそが、「私」という想念に違いありません。

「私」とは誰かをよ~く見てあげると、それがでっち上げられたものであることが良く分かってきます。それは、私は人間である、私は日本人である、私は男性である、私は○○歳である等々。

このように、「私」を説明するためには、○○である、といった属性を羅列させるしか方法がありません。

これは、英語で表現すれば、I am Japanese. などのようなものであり、もしも実在の私を表現するなら、I am. で止めることになり、それは、日本語では「私は在る」ということになるのです。

私とはあれやこれやというものではなく、何の属性もない、ただそれとして在るのです。それこそが、全体である真の自己なのです。そこには、拒絶がないので至福だけがあるのですね。

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