同一視と一つになることの違い

今このブログを読んでいるあなたが何歳であろうと、その年齢分だけ何かと自分を同一視してきたことは間違いありません。

まず初めにやらかした同一視とは、自分とはこの身体であるというものです。実際、そのことによって、「私」という想念が出来上がったのですから。

それからというもの、その「私」が実在しているという証拠を作り続けるために、様々なものと自分を同一視してきたということです。

体験を通して学んでいくことを、「血となり肉となり」という言い方で表現することがありますが、それこそまさしくあらゆる経験を自己と同一視してきたことを物語っているのです。

その記憶の一つひとつが「私」という存在の貴重な肉付けとなっているということですね。そうしてみれば、「私」という人物が全面的に過去から出来上がっているということが分かります。

私たちの歴史とは、自分と何かの同一化の歴史そのものだったのです。それが、「私」という人物の正体です。

けれども、それは自分が何かと一つものになるということとは全く違います。なぜなら、同一視する中心には、主体となる私がいつもそこにいたからです。

こんな経験を乗り越えてきた私、こんな家族を持っている私、年収がこれだけの私、こんな能力がある私、こうしたすべての同一視は自分を肥やして存続させるためのものなのです。

今に耳を澄まして本当の自己の姿と一つになっていくときには、ようやく同一視することをやめて、その自己と一つになっていくことができるのでしょうね。

そのときには、過去を張りくっ付けてでっち上げたこの「私」は、この身体とともに消えていくことになるのです。それを怖いと感じるのか、清々しいと思えるのかはその人の精神状態に左右されることかもしれません。