自己の不在という至福

会社員の頃に、とても精神的にきつい時期がありました。仕事上の責任が重くのしかかってきたりして、なかなかしんどいときがありました。

そんな時には、朝起きるのが本当にいやでしたね。ずっとこのまま寝たままになっていたいと思ったこともあったと思います。

また、それほどに現実が辛くなくとも、私たちは概して寝ることが好きです。暖かくて、柔らかな布団の感触とか、安心感などが好きなのだと思います。

しかし、よく考えてみると、寝ている間というのは意識が途絶えているわけで、つまりその間は自分というものを自覚することができないのです。

それなのに、なぜ寝ることが好きなのでしょうか?これはとても奇異な感じがしませんか?熟睡しているときというのは、自覚がないという点で死の状態と何ら違いがないわけです。

そのくせ、一方では私たちは死をものすごく恐れていて、また一方では寝ることが大好きというのですから、おかしな話しではないでしょうか?

死の状態も熟睡もどちらも、自分というものを意識することができない、つまり自分が不在であるということです。

私たちは、実は誰もがその状態が至福であるということを知っているということです。死を恐れてはいるものの、本当は自己不在こそが至福なのだと分かっているのです。

覚醒とは、肉体的な生が残っている間に、自分の不在に気づくことです。だから、その至福感を求めて覚醒しようとする人たちがいるのです。

ところが、私たちは修行を重ねて覚醒などしなくとも、もうすでに毎晩のように睡眠を通して、自己不在による至福を満喫しているとも言えるのです。

自分が不在となる死をこれほどまでに恐れているというのは、何だか怪しい感じがしてきませんか?死こそが至福だと分かってしまったら、人類はどうなるでしょうか?

至福を求めて自ら死を選ぶ人が大勢出てきてしまうのではないか?という可能性を否定することはできないと思います。

ただし、覚醒した人が自ら肉体の死を選択するということはあり得ないでしょうね。なぜなら、彼らにはすでに死を選択する理由すらなくなってしまっているのですから。