何があっても落ち着いていられる意識の在り方

パソコンに向かって、さて今日は何を書こうかなと考えていたら、思考をフル回転させようと思っても、どだい無理なのでただ自分の素直な今の気持ちを書けばいいやと…。

でも近頃自分の気持ちが分からない、ああそうだ、一番よく思うのはまったくもってこの先の人生がどうなるのか分からないということです。

自分の周りでも、今年は目に見えて大きな環境の変化が起きようとしている人が何人もいるのですが、自分はどうなのだろうかと。

自分もきっと何かがある気がしています。それは、あまり気が進まないような、そういうものかもしれないです。

奇跡のコースを読み出して、しばらくしたころに「教師用マニュアル」を読んで、環境の変化を与えられる人がいると知って、これきっと自分のことだと思ったものです。

一口で言えば、自分が所有していると勘違いしているものを、身包み剥がされるという経験になるのかなと…。

その頃から、ある程度の覚悟というか、心の準備みたいなものがもうできていたのかもしれませんが、それがそろそろ始まりつつあるという予感です。

本質的には、変化は決して嫌いではないのですが、快適な生活の一部でも奪われるとなると、ちょっとへこたれてしまいそうです。

でもそれは自分の表面的な意識についての話しですね。全体性を感じている方の自分の意識では、元々が何もないという感覚なので、何でも来いという感じではあります。

そちらに意識をシフトしてしまえば、シーンと静まり返って、まったく活動のない究極の落ち着きがやってきてくれます。

これがあるおかげで、自分は何があっても、へこたれても、苦しくても、痛くても、絶望的になったとしても、別次元で大丈夫というのがあるので、助かります。