人物として生きることの苦しみ

私たちの誰もがみな同じように、一人の人物として生きていることの苦しみを持っています。それは本来、理屈的には必ず誰にでも当てはまるものです。

人間は、自我が目覚めたときからずっと、自分のことは自分で守らなければならないと言う切迫した恐怖を持つようになるからです。

けれども、その苦しみに全く気づかずにいる人もいれば、心のどこかで薄々感づいている人もいます。そして、もっと明確に表立って気づいてしまっている人すらいます。

気づかずにいる人は、人生で起きることに翻弄されていたり、現実世界で自分の願望や目的を持って、そこにエネルギーを注げるタイプなのです。

そういう場合は、向上心が旺盛であったり、達成感がとても強いということもあるかもしれません。その人なりの人生の目的がしっかり設定されているということもあるでしょう。

いわゆる社会に適合できているタイプの人と言ってもいいかもしれません。したがって、この世界で活躍している場合が多いかもしれません。

ただし、いろいろなジャンルで活躍されている人の中にも、この苦しみをどこかで感じているという人も意外に多いかもしれません。

そういう場合は、何となく見ていてその苦しみが伝わってくるような感じがして、私自身ちょっと切なくなったりもします。

私の場合は、その苦しみをどう対処しているかというと、逆説的になってしまいますが、まずは対処しないということを徹底するのです。

つまり、対処しようとするその思考によっては、決して解決することのできない事柄だからです。この存在の苦しみの生みの親は思考であり、それを何とか解決しようとするのも思考なのです。

その理解をした上で、人生やこの世界のすべてを物語として見る視点を養うことです。自分の本質に気づくことこそが、その苦しみから逃げずにいてなおかつ本当に救われる唯一のやり方なのだと思うのです。