自己の本質こそ平安そのもの

私たちが熟睡しているとき、そこには完全なる静寂がありますね。考えることも、感じることも楽しむことも苦しむこともないからです。

それは、ある意味「死」と同じと考えることができます。けれども、私たちは「死」を恐れているくせに、熟睡することを恐れている人は誰もいないのです。

これは、とても不思議なことだとは思いませんか?心が荒れたり、落ち込んだり、絶望したりすることを恐れて、誰もが静かで平安な心でいたいと望んでいます。

究極の平安とは、未来永劫の平安であることは言うまでもありません。この平安がいつまで続くか分からないというのは、決して真の平安ではないからです。

熟睡しているときに、完全なる静寂さがやってくるのは、未来を心配する「私」という思考がそのときには停止しているからです。

つまり、私たちが心の底から望んでいる究極の平安とは、「私」がいないことなのです。それが、「死」であることは明らかです。

結局のところ、私たちが本当に求めていることは、もっとも恐れていることでもあるという、あり得ない自己矛盾を抱えて生きているのですね。

私自身が真にやすらいで、底知れぬ静寂に包まれるとき、そこには残念ながら、それを感じる人物としてのこの「私」はいないということです。

でも心配いりません。この「私」はいなくなったとしても、私の本質は今と同じように未来永劫に在り続けるのですから。それは平安を感じる「私」ではなく、平安そのものだからです。