輪廻転生は本当なの?

13年前にこの仕事を始めたころは、どういうわけか自分の前世(過去世)を見てみたいというクライアントさんが大勢いらっしゃいました。

それはしばらく経って、徐々に減ってきていて、ここ数年ではそういう目的でいらっしゃるクライアントさんはほとんど来られなくなっていました。

ところが、昨年末からセッションの料金を割安の設定にしてから、また過去世を体験したいという方が増えてきました。

そして、時々輪廻転生というものは本当にあるのですか?と質問されることがあります。勿論、私は死んだ経験がないので確かなことは分かりません。

けれども、一つ明確に言えることがあります。それは、そうした質問をしているのが思考だということです。質問や疑問はすべて思考からやってくるのです。

その質問をしているのは私だというのも、一つの思考に過ぎません。真の事実というものは、思考の中にはありません。

だからこそ、輪廻転生は本当にあるか?という質問に答えようとすれば、その答えも思考の産物でしかありえないのですから、それは真実ではないということです。

それをまずはっきりと理解した上で、敢えて思考による答えをでっち上げようとすれば、私の場合には次のようになります。

肉体の死後にも、しばらくの間、「私」という思考が残存するのであれば、それが魂として次なる肉体と結びつくという可能性はあると思います。

けれども、肉体が生きているあいだに、自分の本質に気づいた場合には、死後に思考が残る可能性が少ないために、転生することはなくなるのです。

いずれにしても、そうしたことはこの現実が物語りであるのと同じレベルで単なる物語であるということです。

「干渉されたくない」を感じ尽くす

心配性な親、過干渉だったり過保護の親に育てられると、親が自分に向けている目がものすごくうっとうしいと感じるようになってしまいます。

あるときには、微に入り細に入り手を差し伸べてくれるので、それはとてもありがたいというか、便利なこともあるのです。

けれども、そのことで自分のやる気や成長を著しく邪魔されてしまうことには、なかなか気づかないものなのです。

そして、しばらくしてから自分の独力では何もできない状態になってしまったことに気づいて、愕然とするかもしれません。

子供は、自分の気持ちを丸ごと受け止めて欲しいと常々思っているものです。ですから、自分が何かを訴えたときには自分のことを見て欲しいのです。

自分の訴えたことに関心を持ってもらって、それを肯定的に捉えてもらえたらとても嬉しいし、安心することもできるでしょうね。

けれども、自分の興味が何か別のことに向いているときには、親の関心が自分に向けられることを好ましくは感じません。

そればかりか、息苦しくさえ感じてしまうこともあるのです。出かけるときに、どこへ行くの?という親の何気ない一言にでさえ、嫌な感じを受けてしまうのです。

正直いって、放っておいて欲しい!というのが本音なのです。そうなると、子供は親の前では自分の存在を消したいと思うかもしれません。

親には全く悪気がないということも子供には分かっているだけに、この苦悩は当たる場所がなく、とてもやっかいなものです。

親にひどい言葉をかけてしまったら、親がショックを受けて、可愛そうに感じるだろうから、それはしたくないしできない、という葛藤が生まれます。

こうして、親にコントロールされ続けて、にっちもさっちもいかない状態が続くと、無自覚のうちに親に対する人生をかけた仕返しが始まります。

それはまさしく、親の期待を裏切るような人生の方向へと突き進んでいってしまうということを意味しています。

そこから抜けるためには、葛藤のさなかに抑えて溜め込んだ理不尽な想い、恐怖や怒り、悲しみといった感情から目を背けることをやめて、それを徹底的に味わうことです。

自分の存在価値へのこだわり

私たちが常日頃、ずっとこだわり続けてきたものがあります。それは、自分という存在の価値についてです。そのこだわりは、生半可なものではありません。

自我に目覚めたばかりの一番幼いときには、価値などという概念を持っていませんので、自分はいていいかどうかという感覚を持つのです。

そして、いていいかどうか分からないままに成長していくと、それは自分の存在否定となって心の奥底に蓄積されていってしまいます。

つまり、自分なんていないほうがいいという激しくも惨めな想いに苛まれるようになるのです。こうなると、いていいと思われたいという願望が極度に強くなります。

その結果、自分の価値、それも他人から見た自己価値がどの程度なのかということに強くこだわり続けるようになるのです。

この人生は、常にいていいかどうか分からないという惨めな不安を、何とかして安心に変えたいという想いでいっぱいになり、安心を得ることが最大の目標となってしまいます。

そのために、何かの役に立とうと頑張ってみたり、誰かの期待に応えようとして辛くなってしまう結果を生み出すのです。

まさに、人生が苦しいのはそうした自分の価値を追い求めた結果なのです。残念ながら、存在の価値とはただ思考が作ったものでしかありません。

思考は、本当のところ「存在」についてあれこれ解釈することができないのです。なぜなら存在とは、ただただ存在することであり、思考の範疇ではないからです。

そのことに気づくことです。自分の存在価値の証明に人生の大半を費やすことほど、ばからしいことはありません。

あなたはただ存在しているのです。思考から開放されたときに、それを知ることになります。それ以外は作られた思考の解釈に過ぎません。

その気づきは、同時にあなたという本質がただ在るということに導いてくれるはずです。それはもう存在ともいえない何かなのです。

罪悪感をそのまま受け止める

敗戦後の日本という国家が抱えている最大の問題とは、私たち日本人の中にこそ反日的思想を持っている人がたくさんいるという事実です。

反日とは、日本という国が戦争を通して、他国を侵略して、残虐に無実の人々を殺戮したというように、歴史の事実を顧みずに思い込むことです。

国を代表する新聞社、放送局、日教組、あるいは多くのマスメディアによって日本人に自虐史観を与え続けています。

戦後に生まれた私たちは誰もがそうした教育を受けてきたことは確かですが、それでもほんの少し歴史を調べてみれば、それが間違いだったと気づくはずなのです。

戦後70年近く経とうとしている今でも、合いも変わらずに、私にしてみれば国をあげて自国を責め続けているというのは、どうにも解せない話しです。

そのことに関する明確な説明を今までに聞いたこともありません。他国の思想が国内に入り込んで、気づかないうちに情報操作されているとでもいうのでしょうか?

私は何となくですが、日本人が特有に持っている自責の念というものが、原因の一つなのではないかと思っています。

歴史上初めて大きな戦いで負けてしまったという事実が、その罪悪感とリンクしてしまい、国をあげて駄目な国のイメージを作ったのではないかと思うのです。

GHQのやった徹底した日本国民に対する洗脳も要因の一つであることは間違いありませんが、それがこれほど長く続くはずがないと思っています。

敵は外にはいないのです。私たち自身の内側にこそ、自分を滅ぼそうとする強い欲求があるのではないかと思います。そのことに気づくことがどうしても必要です。

それには、私たち一人ひとりが自分の中に隠し持っている自己否定感、罪悪感をそのまま受け止めることしかありません。

完全な一人称の本質

もしも今あなたの心が、時間の流れをゆったりを感じる余裕を持っていると感じるなら、次のようにしてみてください。

今していることを短い時間でいいですから中断するのです。歩いている人は立ち止まり、耳を澄ましてみるのです。

パソコンに向かっているなら、キーボードを叩く指を止めて、ディスプレイを見ている目を宙ぶらりんにさせるのです。

目も耳もあらゆる知覚はその機能を止めることはありませんが、それらからやってくる信号には注意を払わないで、今この瞬間に息を潜めるのです。

そうすると、鎮まりかえっているもっとも身近なものに気づくかもしれません。それこそが、本当の自己の姿です。

自分を客観視するのではなくて、敢えて言えば内側から直接それを体験するのです。それは対象物ではないからです。

完全なる一人称の本質に気づくと、それまで使って頼りにしていた知覚が、まやかしだったという気になってくるかもしれません。

知覚と思考によって捉えられるすべての現象が、鎮まりかえった私たちの本質によって支えられているということに気づきます。

知覚と思考をいくらフル稼働させて本質を隠そうとしても、誰もが例外なくいずれは本当のことに気づくことになるはずです。

それがいつになるのか、早いのか遅いのか、そんなこともただの思考のゲームに過ぎないことも明らかですね。

なぜなら、昨日の今も今日の今も、今この瞬間と一つものだからです。

深遠な仕掛けに気づく

私たちが映画館に行って映像を見ているときに、それが人工的に作られたものだということを忘れてしまうくらい、のめり込んでしまうことがありますね。

仮にそれが壮大なスケールで描かれる、リアルな歴史物語であったとしましょう。その物語の中で生きて死んでいった大勢の人物たちが、決してできないことが一つあるのです。

それは何だと思いますか?ヒントは、その物語がリアルであればあるほど不可能なことです。映像がリアルであればあるほど、できないことです。

当たり前のことですが、その映画の物語の中で、「この世界、この時代に起きているすべての事象が今スクリーン上に映されている」ということに気づくことはできません。

それは、あなたが睡眠中にみている夢の中にいて、その夢の中のあなたがこの夢を創作しているあなた、眠りこけているあなたのことを思い巡らすことができないのと同じです。

万に一つ、夢の中でそのことに気づいたとしても、その夢の製作者である自分自身を、その夢の中で探すことはできませんね。

もうお分かりだと思いますが、それと似たようなことが今この瞬間にも起きているということです。この現実という世界は、知覚できない無限のスクリーン上で展開されているある種の映像のようなものなのです。

私たちの知覚を使っていては、決して分からない奥深くて驚嘆に値するこの仕掛けに気づくことはできません。

知覚と思考は1セットです。その思考から離れた意識の地点があるということに気づくことができれば、この壮大で緻密な仕掛けにも気づくことになるということです。

誰もがそのことに気づいたら、みんなで一緒にこの物語を思い切り楽しむことができるようになるでしょうね。

本当に求めているものは?

自分が求めているものって一体何なのだろう?と考えたことのない人はいないはずです。誰だって、自分の欲していることに興味を持っているからです。

自分が本当に必要としていること(もの)、心の底から望んでいること(もの)、あなたの場合それは物理的な何かですか?それとも目には見えないものでしょうか?

答えがもしも物理的な何かであった場合には、それをなぜ欲しているかと問い直せば、必ず最後は目には見えないものであると分かるはずです。

お金が欲しいのは、安心するためかもしれないし、あるいはやりたいことを実現するための資金として必要ということかもしれません。

資金が調達できて、あれこれと思い巡らせていた長年の夢が叶えば、満ち足りた心を得ることができるでしょうね。

最良のパートナーが欲しいのは、孤独や不安から開放されたいためかもしれませんし、可愛い子供を授かりたいということかもしれません。

結局、物理的な何かを求めているというのは、それを手に入れられたときの心の平安や満足感、安心感などを求めていたということです。

ところで、そうした満足感というものが永久的に持続することは決してないということを、残念ながら私たちは経験から充分に知り尽くしています。

ここまで見て来れば、私たちが本当に求めているものとは、永続するものであるということが分かります。そして、それは時間の中には決してないということも明白ですね。

あなたが本当に求めているものとは、時間を越えた「今」という真実にしかないということです。であるならば、それは今この瞬間に手に入っているものです。

そのことに気づくことこそが、本当の救いであり、それは本質の自己に気づくということに他ならないということです。

本当の自己に気づく

私たちは、毎日いろいろな人生を生きています。時間の中を忙しく動き回っている人もいるでしょうし、比較的のんびりとした時を過ごしている人もいるかもしれませんね。

時間の流れを早く感じようがゆっくりに感じようが、時間は過去から現在(今)を通り越して未来へと進んでいくように思えます。

けれども、本当は誰も時間の流れの中になどいるわけではありません。もっと言えば、今このときとは、時間とは何の関係もない本質なのです。

今この瞬間こそが、本当の私たち自身であるということに気づくと、きっとその人の奥深くである明確な信頼が起こるのです。

時間は思考であって、思考こそが時間という空想を作り続けているのです。今この瞬間、立ち止まって、手を止めて、すべてが現象化しているその奥にあるものに注意を向けてみてください。

それが在ることによって、現象化が起きているその「在るもの」に意識を向けてみるのです。何かに集中するのではなくて、穏やかに耳を澄ます感じです。

始めのうちは、これは一体何なのだろう?というのがやってくるかもしれません。どんな質問がやってきても、それをそのままにしておくのです。

そうすると、質問自体が無意味だったということに気づくようになります。そのとき、個人としての自分の意識が、見せ掛けのものだったと分かります。

自己も意識も決してなくなることはないままに、本当の自己である今この瞬間と一つになることができるかもしれません。

本当の自己でなくなることは不可能なことです。ですから、私たちにできることは、ただただ本当の自己に気づくということだけなのですね。

人物として生きることの苦しみ

私たちの誰もがみな同じように、一人の人物として生きていることの苦しみを持っています。それは本来、理屈的には必ず誰にでも当てはまるものです。

人間は、自我が目覚めたときからずっと、自分のことは自分で守らなければならないと言う切迫した恐怖を持つようになるからです。

けれども、その苦しみに全く気づかずにいる人もいれば、心のどこかで薄々感づいている人もいます。そして、もっと明確に表立って気づいてしまっている人すらいます。

気づかずにいる人は、人生で起きることに翻弄されていたり、現実世界で自分の願望や目的を持って、そこにエネルギーを注げるタイプなのです。

そういう場合は、向上心が旺盛であったり、達成感がとても強いということもあるかもしれません。その人なりの人生の目的がしっかり設定されているということもあるでしょう。

いわゆる社会に適合できているタイプの人と言ってもいいかもしれません。したがって、この世界で活躍している場合が多いかもしれません。

ただし、いろいろなジャンルで活躍されている人の中にも、この苦しみをどこかで感じているという人も意外に多いかもしれません。

そういう場合は、何となく見ていてその苦しみが伝わってくるような感じがして、私自身ちょっと切なくなったりもします。

私の場合は、その苦しみをどう対処しているかというと、逆説的になってしまいますが、まずは対処しないということを徹底するのです。

つまり、対処しようとするその思考によっては、決して解決することのできない事柄だからです。この存在の苦しみの生みの親は思考であり、それを何とか解決しようとするのも思考なのです。

その理解をした上で、人生やこの世界のすべてを物語として見る視点を養うことです。自分の本質に気づくことこそが、その苦しみから逃げずにいてなおかつ本当に救われる唯一のやり方なのだと思うのです。

無邪気で無防備な状態に戻る

私たちの人生を、目には見えない心の様子として捉えたうえで、その推移を以下に書いて見ます。必要なことだけに極端に絞っています。

o 無邪気で無防備な状態で生まれる

o 自我(自分がいるという思考)が発生する

o 自己防衛を始める(自分の存在否定)

o 自己防衛の強化、構築(自分は駄目じゃないという証明)

この先は人によって異なってきます。このまま、駄目じゃない自分、より良い自分を作っていこうとし続けるか、あるいはそれ以外の気づきを得るのか。

前者のままで心の癒しを始める場合がほとんどですが、その途中で後者の気づきを得ることになる場合もあります。

後者の場合に限って、自己改善プログラムという自己防衛システムの魔の手から抜け出す可能性が出てきます。

自分を何とかしようとする想いをそのままに受け止めて、その誘いに乗らない生き方をするようになるということです。

そのときに初めて、一番最初のステップのときの自分をしっかりと思い出すことができるのです。それはもう、清々しいことこのうえありません。