心底自分に謝ったことがありますか?

このエピソードは今までにもう何度もブログやセッションでみなさんにお話ししたことがあるのですが、昨日のブログを今読み直しているうちに再度書きたくなったので、書いてみます。

私の今までの人生の中で、たった一度だけですが、とても大きな心理的な出来事があったのです。それは、2000年の5月か6月ころだったと記憶しています。

IT業界で仕事をしていて、ちょうど2000年問題が話題になって、何とか無事に年を越してすぐのときです。つまり、2000年1月の始め、毎年やっている人間ドックの検査で大腸がんが発見されたのです。

2月のはじめには手術をして、自宅療養も含めてその月のうちには回復していました。3月から普通どおりに仕事を始めて数ヶ月たったときです。

いつものように夜お風呂に入って、身体を洗い終わって出ようとしたときに、見慣れた50針ほども縫った手術の傷跡を見て愕然としたのです。

それは突然やってきました。理由は分からないのですが、自分が自分を傷つけてしまった、これほどの傷を与えて取り返しのつかないことをしてしまって、本当に申し訳ないという深い謝罪の気持ちが襲ってきたのです。

それまで自分がどんな目に遭おうとも、それが自分のせいだとしても他人ではないので、自分が我慢すればそれで済むものと思っていたのですが、そのときばかりは違いました。

完全に自分に対する加害者側の立場に気持ちが移ったのでしょうね。何度も繰り返して、自分に謝っていたのを覚えています。

そして、それ以降は自分に謝らなければならなくなるようなことは、もう決してしないようにしようという決意をしたように記憶しています。

その決意によって、あとは自然にサラリーマンを辞め、今の仕事へと先の見えない一本道をすごい勢いで進まされたような感覚があるのです。

大切な人生の道は自分で掴むものと世間ではいいますが、私の場合は自分への深い謝罪とそれへの反省を含めた決意によって、勝手に道が自分の前に開かれたように思っています。

大切な人をいたわるのと同じ「目」で、自分をいつも見ることができるなら、人生はあなたにやさしく微笑んでくれるはずです。

真に自由でいるためには?

私たちの誰もが自由を求めているのは確かなことです。不自由な暮らし、不自由な生き方、制限されて抑圧された人生などまっぴらなのです。

けれども、残念なことに私たちは、自由よりも一過性の安心を得ることを優先して生きているということに気づく必要があるのです。

もっとこうならなければ、今よりもより向上しなければ、この部分を何とかしなければ、こうでなければならない、こうあるべきだということに振り回されていませんか?

それは、自分を少しだけ安心させるために自分自身がこしらえた制約であり、ルールであり、正しさなのです。

そのルールや正しさの中で生きている限りは、後ろ指を指されることもなく、誰かに否定されて見捨てられることもないと思い込んで、自分を不自由な牢獄に閉じ込めているのです。

あなたは自分を本当に自由にしてあげたいと思っているでしょうか?自由とは、安全な中でそっと胸をなでおろして生きていることを指してはいません。

外側からの否定や攻撃がやってくることもありますし、自分を危険なところへと向かわすこともあるかもしれません。

それでも自由でいたいという強い決意を持っているでしょうか?自分を本当に愛しているのであれば、一時しのぎの安心よりも自由を与えてあげることです。

自由を手にするのはいたって簡単です。それは、自分を精神的に守ろうとする自己防衛をやめていくことです。

そのためには、一瞬一瞬立ち止まっては、自分の本当の気持ちから逃げずにそれを見てあげることです。すべてをすくいあげて、ありのままの自分でいさせてあげることです。

自分に正直でいること、それが自由へのチケットだと思ってください。

私たちが抱えるジレンマ

私たちが誰しも心から求めている真の平安とは、死ぬことでしか実現できないということを知っているのです。

死ぬことによって、未来への不安や過去への後悔はすべて消え去り、喜びもなくなると同時にありとあらゆる苦しみからも解放されるのですから。

その反面、私たちは死ぬことを恐怖の中心に据えて見ています。つまり、もっとも理想と考える状態は、もっとも恐れているところにあるということ。

これが私たちが抱えている、どうしようもないジレンマなのですね。私たちは、常に愛を求めてもいます。愛はすべてと一つになる(戻る)ことです。

全体から分離してしまったと思い込んでいる自分を、全体へと戻したいと言う強い渇望があるのです。それが愛の正体に違いありません。

けれども、全体の中に溶け込んでいってしまうということは、この自分が消滅するということでもあるのです。

愛とは、自分が消滅して全体へと帰還するということですから、個別の自己は完全に消滅してしまうのです。

結局、愛を求めることは、もっとも恐れている自分の死を意味するのですから、やはりここでも手の打ちようのないジレンマがあるのです。

なんということでしょうか?これでは、どれほど努力したところで人生が完全に満ち足りるということが不可能な気がしてきます。

でもこのお話しには、実は一つだけ大きな誤解が隠されています。それは、全体性へと解けたあとも、自己という一人称の気づきはそのまま残るのです。

だから、恐れることはないのです。死を恐れなくなれば、人生はとても気楽なものとなるでしょう。そして、愛をも恐れなくなるはずです。

「確かさ」が消えるとき

山などに行って、人が何度も繰り返し歩いた末にできた道を歩いていると、安心できますね。その道には「確かさ」があるからです。

反対に、前人未到の場所で道なき道を歩くときには、「確かさ」は微塵もありません。だから、人は不安になってしまう可能性があるのです。

私たちは、無自覚のうちにいつもその「確かさ」を支えにして生きているのです。自分という人物が誰なのかを知っていることが、「確かさ」の一番底辺にあるのです。

けれども、瞑想をするなど、どんな手段を使ってでもいいので、意識が真実の方へ向き出すと、今まであったはずの「確かさ」が脆くも崩れていくことになります。

前後左右不覚になって、自分は何一つ「確かさ」を持ち合わせてはいないということに気づかされてしまいます。

そして最後には、この自分さえ一体本当はナニモノなのかが、分からなくなるのです。一番頼りにしていた「確かさ」が消えてしまうのです。

それは慣れないうちは、単なる不安というよりも恐怖に近い感じを受ける人もいるかもしれません。それでも、そこから一歩も引かずにその不安の中にい続けると、突然真理が更に近づくのです。

それは、「確かさ」を喪失することこそが、本当は究極の平安だったというところに行き着くからです。自分が誰でもなくなったとき、過去が追ってくることはもうありません。

勿論、未来に対する不安も消えてしまいます。なぜなら、未来自体がなくなってしまうからです。あなたが一番頼りにしている「確かさ」を失ったとき、本質がそれそのものに気づくのです。

本当の問題は何か?

人は生きている限り痛い思いをしたり、辛くて苦しいことがやってきます。心が傷ついてしまうことだってあるはずです。

けれども、そうしたことには何の問題もありません。誰だって苦痛はいやですよね?でも、それ自体に問題があるのではないのです。

問題は、ただそれを避けようとすることです。この違いが分かるでしょうか?明確ですね。苦痛は問題ではなく、逃げることが問題なのです。

誰かにひどいことを言われて、悲しい気持ちになることは問題ではありません。その悲しみを何とかして感じないようにすることが問題なのです。

理不尽な目に遭って、何ともやりきれない気持ちになったり、怒りで興奮が収まらないことは、何の問題もありません。その怒りを真正面から見ようとしないことが問題なのです。

いやなことが起きた。ああ、またあの絶望感がやってきた。困った事態に落ち込んでしまった。こういうことは、問題ではないのです。

そうしたことのすべてから、目を背けて無かったことにしようとしたり、違うことを考えて気を紛らしたり、そのほかあらゆる手段を使って逃避することだけが問題なのです。

あなたが、自分のことを人よりも劣っていると感じて自己嫌悪するのも、人を傷つけたとして罪悪感に苛まれることも、問題ではありません。問題は…、もうお分かりですね!

あなたの人生に起きるあらゆることは、一切問題ではありません。起きることがただ起きているだけです。問題は、自己防衛のためにそれを見ようとしない、その一点に尽きます。

都合が悪いことが起きたら、こう言ってください。「これは問題ではない。これから逃げようとすることが問題なんだ」と。明日からの実践、是非是非!!

人生はシンプルで清々しいもの

私たちは、目の前にあるものを見るときには、通常何の努力も必要ありません。ただ、目を開けているだけで、見ることができるのです。

何かの音を聞くというときなどはもっと簡単で、何もせずとも耳から音は入り込んでくるのです。そこには、どんなエネルギーも消費することはないのです。

ところで、「私は見る」とか、「私は聞く」というときに、実際に見たり聞いたりしているのは本当に私でしょうか?この質問を小ばかにしないで下さい。

「私は見る」、「私は聞く」というのは、事実のようでいて実は思考がそのように解釈をつけているだけなのです。

本当に起きていることは、ただ見るということだったり、ただ聞くという事象なのです。そこには思考は入り込む余地がありません。

それなのに、思考がしゃしゃり出て、私が見ているのだ、私がこの音を聞いているのだという具合に説明をし続けるのです。私たちは、残念ながらそれを事実と思い込むのです。

さきほどの質問に戻すと、「私は見る」、「私が聞く」というとき、実際には私たちが思っているような私が本当に見たり聞いたりしているのではないということです。

結論からいえば、誰も見たり聞いたりしている主体はいないということです。ただ見るという行為、聞くという行為が起きているだけなのです。

言葉を変えて言えば、思考が見たり聞いたりすることはできないのです!これって、注意深く見ればおのずと理解することができるはずです。

私はこれに気づいたときに、結構驚きました。起きているいかなるものも、思考とは直接関係がありません。思考はそれを独自に解釈しているに過ぎないのです。

一番初めに戻って、私たちが見たり聞いたりするときに、何の努力も必要がないのは、あらゆるものの源泉からそれがやってくるからなのです。

いかにも、思考がそうしたことを起こすエネルギーを持っているように感じるのですが、それは間違いです。

だから、起きていることはただ起きているのですから、それをただそのように受け止めてあげているだけで完結しているのです。

このようにして、思考に左右されなければ、私たちの人生はもっともっとシンプルな清々しいものであることに気づけるはずですね。

私たちの本質としての意識

私たちは誰もが人生の初めのほうで、自分は身体だという思い込みを持たされて生きるようになるのです。

自分が朝起きるとき、学校で友達と遊ぶとき、家族と食事をしているとき、いかなるときもその中心にいる自分は身体だと認識しているのです。

自分とこの身体との同一視は、気づかぬうちに根深いところに信念として固定されて、それ以降はそのことを疑うということもなくなってしまうのです。

この自己同一視が、どれほど人を苦しめることになるのか、私たちの苦悩のすべては自分が世界から分離した個人だという思い込みからやってくるのです。

この大間違いを正すためには、自分を静かに見てあげる必要があります。身体が「これが自分だ」と言うのを一度でも聞いたことがあるでしょうか?

身体を使っているのは身体ではないことは明白です。身体をコントロールしているもの、それは意識なのです。

自分は意識であると言ったほうが、自分は身体であるというより遥かにしっくりくるとは思いませんか?ところが、ここでもう一つ間違った解釈をしてしまっています。

それは、個人としての私たちの個別性を生み出しているのは、意識というよりも思考なのです。思考は無数に生まれては消えていくものです。

けれども、その思考のバックにあり続ける意識は、生まれたり消えたりすることはありません。つまり、自分は身体でもなく、思考でもなく、意識であるということ。

意識を定義することも、解釈することも一切できませんが、それこそが私たちの本質です。それを気づきと言う人もあれば、源泉、あるいは神と呼ぶかもしれません。

気づき自体がそのことに気づくとき、私たちは人生の中に散りばめられている苦しみから解放されていることにも気づくことになるのです。

二種類の思考について

私たちはいつも思考と一緒にいます。起きて活動しているときに、思考を使わずにいるという経験をすることは、一般的には稀なことですね。

その馴染み深い思考を、これから大胆に二つの種類に分類してしまいます。一つは、その瞬間瞬間に物事を進めていくための機能を司る思考です。

そしてもう一つが、まさに考えるという類の思考です。前者の思考との一番の違いは、その思考を使って考えている自分がいるという点です。

機能を司るための思考とは、たとえば歩くという行為、クルマを運転するという動作、コップで水を飲む、洗い物をするなどです。

この思考は、ただただ機能することにのみ主眼があって、それ以外の目的を持っていません。だからと言って、感情を発生させないわけでもないのです。

何かを機能的に働かせるために、それを妨害されるようなことがあったら、怒りという感情を用いてその場を解決しようとするかもしれません。

けれども後者の思考のように、いつまでもその怒りを持ち続けたり、起きたことに執着するということもありません。なぜなら、機能することが唯一の目的だからです。

逆に後者の考えるという思考は、その中心に自分がいるためにその思考の多くは、自己防衛のために使われてしまうのが実情です。

したがって、その思考のほとんどが過去と未来へと向けられるわけです。繰り返しになりますが、機能を司る思考は今この瞬間に向いているのですが、考える思考は過去と未来にのみ関心があるのです。

つまり、機能する思考の割合が多くなればなるほど、そして考える思考が少なくなればなるほど、より機能的に生きることができるようになり、よりシンプルな生き方ができるようにもなるということです。

自己の本質こそ平安そのもの

私たちが熟睡しているとき、そこには完全なる静寂がありますね。考えることも、感じることも楽しむことも苦しむこともないからです。

それは、ある意味「死」と同じと考えることができます。けれども、私たちは「死」を恐れているくせに、熟睡することを恐れている人は誰もいないのです。

これは、とても不思議なことだとは思いませんか?心が荒れたり、落ち込んだり、絶望したりすることを恐れて、誰もが静かで平安な心でいたいと望んでいます。

究極の平安とは、未来永劫の平安であることは言うまでもありません。この平安がいつまで続くか分からないというのは、決して真の平安ではないからです。

熟睡しているときに、完全なる静寂さがやってくるのは、未来を心配する「私」という思考がそのときには停止しているからです。

つまり、私たちが心の底から望んでいる究極の平安とは、「私」がいないことなのです。それが、「死」であることは明らかです。

結局のところ、私たちが本当に求めていることは、もっとも恐れていることでもあるという、あり得ない自己矛盾を抱えて生きているのですね。

私自身が真にやすらいで、底知れぬ静寂に包まれるとき、そこには残念ながら、それを感じる人物としてのこの「私」はいないということです。

でも心配いりません。この「私」はいなくなったとしても、私の本質は今と同じように未来永劫に在り続けるのですから。それは平安を感じる「私」ではなく、平安そのものだからです。

マインドからの開放

この世界では、常に何かが起きています。それはただ起きているだけなのですが、そこに思考が介入することで、解釈が様々にできるようになるのです。

そのことを一般的には投影と呼ぶのです。つまり、その人のマインドの中身を外側の世界へと投影して見るということです。

たとえば、ある人のマインドが悲しみに満ちているとすると、この世界で起きていることを悲しい出来事だとして捉えることになるということです。

別の人のマインドに怒りが溜まっていると、その人はこの世界の様々な出来事を怒りを持って見ずにはいられなくなるのです。

マインドというのは、エゴによって作られた心を意味しますので、そのマインドが活躍している限りは、この世界を概ね否定的に見ることになってしまうのです。

したがって、マインドの働きが弱って、思考と知覚の最強コンビに陰りがみられるようになったときにだけ、私たちは投影から解放されるのです。

マインドによる投影から開放されると、どうなるでしょうか?それは勿論、対象に意識が向かわなくなるということです。

究極の一人称、対象を持たないただ在るだけの自己に純粋に気づくようになるということです。それが、マインドが無い状態の純粋な意識です。

それこそが、私たちの本質なのですね。