苦しみよ、さようなら

私たちのあらゆる苦しみというものは、願望を持つことからやってくると言って間違いありません。なぜなら、その願望が現実にならないということが苦しみだからです。

この苦しみというのは、単純な痛みとは全く異なるものです。痛みは事実として存在しますが、苦しみは自分が心の中で作らない限りは存在しないからです。

だからといって、願望を持つこと自体を否定しようとしているのではありません。誰だって、願い事、望み、欲望などを持っています。

望むことがあるからこそ、それに向かって突き進んでいくこともできるわけですし、それが実現すれば大きな喜びを勝ち取ることだってできるのです。

オリンピックを観戦するときに、どのチームもどの選手も応援せずにただ漫然と見ていることもできますが、あまり興奮することはできませんね。

日本の選手やどこかヒイキの国のチームや選手を応援しながら見るからこそ、スリルや興奮がくるのでしょうし、願った結果になれば悦びもひとしおです。

ここで私が言いたいことは、実は冒頭書いた「その願望が現実にならないということが苦しみだからです」というのは本当は正しくありません。

本当の苦しみとは、願望が実現しなかったことや、願っていない現実がやってきたときに、それを認めようとしないことこそが、苦しみの根源だということです。

いやなことをいつまでも引きずってしまうという苦しみは、気づかぬうちに現実から逃れようとしていることからやってきます。

どんなことが起きようが、それによってどれほどの心的痛みがやってこようが、ただじっとしてそこから一歩も動かずにいればいいのです。

我慢することなく、反応としてやってくる感情をただ浴びるだけ浴びてあげればいいだけです。そうすれば、痛みは小さくなり苦しみは一つも残ることはありません。

親を内在化する理由

誰もが幼いころに、親の内在化ということを行います。行うといっても実際の行動ではなく、心理的に行うということです。

それはどういうことかと言うと、自分の親にそっくりな人格を心の中に作ってしまうのです。勿論それは、無自覚のうちに行われるので、本人に気づかれることはありません。

作られた人格は、副人格として心の中にしっかりと定着して、それ以降の人生においてとても重大な影響力を持って活躍することになるのです。

なぜそんな人格を作ることになるのかといえば、それは自分を守る、自己防衛のために他なりません。では、親の内在化がどのようにして自分を守ることになるのかを見ていきます。

たとえば、子供を否定する親がいたとすると、その子供は自分でも知らぬ間に自分のことをまるで親が否定するのと同じように、自己否定する人格を作り上げてしまいます。

そして、実際に親に否定されるよりも前に、自分の中で自分が否定されてしまうので、そこで否定されないようにと行動修正することができるのです。

親に否定されてしまえば、もしかしたら親に嫌われて見捨てられてしまうかもしれないという大変な危険な事態になりかねないわけです。

それに比べて、自分自身に否定されるだけであれば、特別に危険な目に遭うということもありませんので、結果として自分を救うことになるのです。

親の内在化は、いつもこのブログでお話ししている自己防衛システムの中のもっとも標準的なものの一つであるということができます。

ということは、つまり親の内在化にいつまでも翻弄されていると、結果として自分を守るどころか人生が非常に不自由なものとなってしまいます。

なぜなら、自分で自分の気持ちを抑圧することになってしまうからですね。あなたはどんな人格の親に育てられたでしょうか?

そして、その親の内在化した人格にどれほど条件付けされた人生を生きているでしょうか?自分の中にいる親二世をしっかり見てみることです。

その上で、その副人格の思いや気持ちを丸ごと受け止めてあげることができるなら、もうそれに惑わされることもなくなるはずです。

逃げないという選択肢があることに気づく

by Gangaji

逃げたい、という衝動に気づき、その衝動に直面しながらも逃げるのを止め、振り向いて、あなたが逃れようとしてきたものと正面から向き合うことが、あなたにはできます。

それは肉体的なものかもしれませんし、精神的なもの、感情的なもの、あるいは政治的なものであるかもしれません。

生きるか死ぬかの問題かもしれません。あるいはそれはあなたの最も深い恐れかもしれませんし、最も深い喜びかもしれません。

それは、あなたが誰であるか、そして誰ではないか、という概念と向き合うことを意味するかもしれません。

逃げたい、という衝動を自覚すると、選択肢が生まれます。逃げることを拒(こば)み、苦しみの原因と思われるものと向き合う、という選択肢です。

選択する能力というのは理性の持つ最も優れた力ですが、この選択はあなたがこれまでにしてきたどの選択とも違うレベルのものです。

抵抗を止め、逃げ出そうとするのを止める、という選択をしたとき、否応(いやおう)なく、見事に、何の努力をも必要とせずに、あなたという存在の宝物が、あなたの真実の姿として現れます。

そのときあなたは、癒されるべき傷が癒されるのを祝福し、残された傷を嘆き悲しむことができます。

そして、祝福と嘆きの只中にあってあなたは、常に存在する真実の中で休息を得ることができるのです。

奇跡のコースから遠ざかる決意

このブログを書くようになったのは、今から5年ほど前に A Course In Miracles(奇跡のコース)という本と出会ったことがきっかけでした。

この本を読み出したと同時に、一日一課づつ用意されているワークをせっせとやり始めたのが、2008年9月1日でした。

そして約半年が過ぎた2009年3月にこのブログを書き始めたのです。HPのブログ入り口のページにも書いてありますが、その当時の私はこの本にすがりつきました。

なぜなら、何となく行き詰った感じがしていた自分のセラピーに、新たな光が射し込んで来たように感じたからです。

どれだけ心の癒しを進めていっても、奥深くに燻っている苦悩のようなものが消えることはないと分かってしまっていたからです。

その苦しみの本質とは、自分が一個の分離した個人であるという思いに由来しているということに突き当たって、それだけで救われた気がしました。

ところが、奇跡のコースを繰り返し読み込んでいくうちに、少しずつ違和感のようなものを感じるようになったのです。

それはこの数年の間に体感した自己の本質というものが、何の理屈もないままに自分の中で大きく育ってきてしまったからでした。

コースの教えは本当にすばらしいの一語に尽きるのですが、それでも自分にとっての最適なアプローチではないように思うようになったのです。

最近になって、コースを読んでみると、今自分が知ることになった自己の本質への気づきが、逆にコースを読み始めたあたりの時点に戻されてしまうような気がするのです。

ということで、しばらくの間になるのか、それとも永久にということになるのか、コースから離れてみようと思っています。

本質自身が本質としての自己に目覚める

昨日のブログの中で、「覚醒するということは、まさに人物としての体験の中で、その本質自身が本質としての自己に目覚めることを意味します。」と書きました。

ということは、つまり個人としての自分が自分なのだと自覚している自分、これをエゴと呼びますが、それが覚醒するということはないということです。

それにもかかわらず、私たち、あるいは私たちのエゴは、自分の本質を探究して、いずれは覚醒したいと願っています。エゴが何なのかということにはあまり興味を示さずに…。

これは本当にめでたい?見当違いなことですね。私たちの誰も覚醒することはできません。覚醒するのは、本質としての自己そのものなのですから。

このことは、寝よう寝ようと意識すればするほど、寝付けなくなってしまうあの現象と似ています。覚醒とは私たちエゴがコントロールできるものではありません。

私たちは自分の力で寝入ることができないことを知っているからこそ、自然に寝入るがままに任せようとするのです。

それと同じように、自分の力を放棄して、委ねることによってエゴという邪魔者の存在が小さくなって、その奥から本質が顔を出すことになるということです。

いつ寝入ることができるのか、誰にも予測できないのと同じで、いつ覚醒がやってくるのかは神のみぞ知るということですね。

人生をコントロールしたいという願望も、コントロールできるという信念もどちらも脇において、観念することにしませんか?神さえもコントロールしてはいないのですから。

自分という個人は本当にいるか? その2

昨日の続きです。

私たちは自分という存在が二人以上いるということを理解することができません。なぜなら、自意識とは自分は唯一だと信じているものだからです。

ところが客観的事実として、私たちは特定の誰かが複数人いたとしても、原理的にはそれを理解することが可能なのです。

昨日は、その矛盾は自分を連続した存在であると信じることから起こるのだということについてお話ししました。

そして更に、次のように考えることにより、自分という人物が複数いてもいいということにもっと明確に気づくはずです。

私たち一人ひとりの個人とは、私たちの本質からすると、この現象界を体験するためのただの機構に過ぎないのです。

真に唯一の本質が在り、順番にすべての人物の中に入っては、その機構を使ってその人物としての体験をするのです。

私の中に入っている間は、私という人物としての自意識によってこの世界を生きていると感じるわけです。その本質は、次の瞬間にはあなたという人物の中に入るのです。

そうやって、地球上では一瞬のうちに70億人の人物の中に入り込んでは、それぞれの人物として生活しているかのような体験をするのです。

覚醒するということは、まさに人物としての体験の中で、その本質自身が本質としての自己に目覚めることを意味します。

何だか楽しくなりませんか?

自分という個人は本当にいるか?

ips 細胞の発明によって、いずれは他人から臓器を提供されて移植するということが必要なくなる時代がやってくるのでしょうね。

あらかじめ、患者自身の臓器を ips 細胞から作っておいて、それと交換するだけで済むわけですから、これ以上の治療はありません。

その際移植する臓器は自分のものと全く同じものであるため、拒絶反応などを心配することもなくなるわけですから、本当にすばらしいですね。

さて、更に医学が発達した遠い将来には、今の自分とまったく同じコピー人間を作ることもできるようになるかもしれません。倫理上の問題はともかくとして…。

そのコピー人間とは、今の自分自身となんら違う部分のない、完全なるコピーです。肉体も精神も、記憶も性格にいたるまで、全く同じ自分自身です。

そうなった場合、オリジナルの自分とコピーされた自分の区別はつかなくなってしまいます。互いに、俺がオリジナルで、お前がコピーに違いないと言い合うことになるかもしれません。

なぜなら、自分がコピーされたという記憶がどちらにもないからです。そうなったときのそれぞれの自分とは何なのでしょうか?

私たちは、自分という個人が二人以上いるということを理解することができません。コピーはいくらいてもいいけれど、それはあくまでもコピーでしかないという立場です。

けれども、客観的にあなたを見る人からすれば、どちらもあなただと言うはずです。なぜなら、両者を区別する何のすべも無いのですから。

それでも、オリジナルのあなたとコピーされたあなたの二人は、ともに自分は一体どっちなのかということに延々と悩むことになるでしょう。

私たちが感じるこの不自然さは一体どこからくるのでしょうか?それは、自分という個人は過去からずっと連続して存在するという思い込みがあるからなのです。

もしも、一瞬一瞬自分という人物が新たに作られているとしたなら、オリジナルだろうがコピーだろうが、一瞬でリセットされてしまうのですから、何の違いも無いということに気づきます。

つづく

私はあなたの目の前にいたことはない

あなたが目の前にいる誰かとお話ししているとき、その人の意志はその人の身体の辺りにあるように感じているはずですね。そのことに異論のある人はほとんどいないはずです。

なぜなら、私たちは幼い頃より人物というものを身体と結びつけて見てしまう習慣を与えられて育ってきたからです。

けれども、私と対面して会話をしたことのあるすべての人にお伝えしたいのですが、私自身の本質はあなたの目の前にはいませんでしたし、これからもいることはありません。

私が特別に目をかけているこの身体だけは、確かにあなたの目の前にありましたが、その身体の中には私と言える何者も入ってはいませんでした。

私の身体をどのように切り裂いて、解剖していただいたところで、私の本質を見つけることができないのは明白です。

なぜなら、私の本質である純粋な意識には大きさがありません。どこからどこまでが私なのかという境界も見つけることができないのです。

つまり、本当の私はどこにもいないと表現するか、あるいはすべてであるとしか言いようがないのです。それが全体性ということです。

このことは、そのままあなたという本質についてもまったく同じように言うことができるはずです。ただし、私たちの思考は時空を発明して、自分がどこにいるのかを知っているつもりになっています。

それに騙されないでいることができれば、ここで私が言っていることに気づくはずです。何も難しいことはありません。ただ、当たり前のこととして信じきってきたことを一度脇に置いてみる勇気があればいいだけです。

私である意識と、あなたである意識は同じ一つものであるということ。それが、あなたは私、私はあなたということです。

宇宙にはどんな意図もない

子供の頃、何でこの宇宙なんだろう?ということを思って、どうしても不思議で、腑に落ちない変な気分になっていたことがありました。

なぜこの宇宙でなければならないのか?なぜこの宇宙が在るのだろう?今もわざとこの思考にはまってあげると、同じような気分がやってきます。

けれども、子供の頃と今との大きな違いは、疑問が起きることそれ自体には疑問を感じなくなったということです。

つまり、思考というのは疑問がつきものであって、疑問を持たない思考などあり得ないということが分かったのです。

結果として、そうした疑問に対して思考が納得できる答えを得ることができないとしても、そのことでじくちたる思いになっても、それも思考の持つ特徴に過ぎないことも分かったのです。

思考の範囲で解説するとするならば、この宇宙であるための理由は特別何も無かったということです。思考が求める、「目的」、「意味」、「価値」などは架空の作り物だからです。

宇宙という現実においては、私たちは何一つコントロールすることはできません。本当は、コントロールしようとする主すら思考の産物なのです。

私たちが大自然を目にしたときに感じる、あの自然の神秘にはそうなるどんな目的もありません。この宇宙という自然には意図がないからです。

科学者は、いまだにこの宇宙の中になんらかの秩序を見つけようと躍起になっていますが、たとえ秩序が見つかったとしても、それはただそれだけのことで、そこには神の意志も何もないのです。

ただ一つだけ、私たちの本質である純粋な意識からやってくる現象としての宇宙を、大きな驚きを持って観ることに徹していればいいのだと思います。

どんな情報も真実とは無関係

子供の頃、どんな疑問や質問にも的確に答えてくれる存在が一人いてくれたらどんなにいいだろうと思ったものです。

それが、その頃の自分にとっての神に相当するものだったのかもしれません。そうした存在を夢想すると、何だか安心できたのでしょうね。

今では、コンピュータとインターネットの発達によって、桁違いに物知りの友人をいつもそばに置いているのと同じ状態が実現されました。

世界中の図書館の蔵書とまではいかないまでも、それとは別の時々刻々のリアルな情報も苦も無く手にできるようになりました。

また、聞きかじりですが、宇宙のどこかにはアカシックレコード?と呼ばれるところがあって、そこには宇宙の全歴史が刻み込まれて保存されているらしいとのこと。

私の身体には今何本の毛が生えているか?なんてことも書いてあるっていうことなんでしょうか?それは本当に恐れ入ります。

けれども、そうした情報というのは一体何の目的なのかということも一度は考えたほうがいいように感じます。

なぜなら、情報としての知識を利用するのは、思考以外にはないからです。思考だけが、そうした情報を食べて肥えて安心したいのですから。

そんな情報がいくらあったところで、真実とは何の関係もありません。真実には情報などありません。情報は、真実という源泉から流れ出てきた現象の一部であるだけだからです。

人類が、とうとう宇宙のすべてを解き明かしたとしても、あらゆる事象のすべてを解明できたとしても、それ自体が真実であるということではありません。

そうした理解は思考の産物だからです。そんなことを期待する前に、きっとすべての人が自分の本質に気づくときがやってきてしまうのだと思います。