私たちは、いつも自分に都合のいいこと、求めていることが起きることを望んでいます。そうした現実がやってくれば、嬉しくなったり悦んだりして、いい気持ちになれるからです。
不満だった気持ちが満たされるようにもなるし、不安な気持ちも安心に変えられるかもしれません。そうなれば興奮もするし、自分は幸せだということになるのです。
逆に、自分にとって都合の悪いこと、いやな出来事などは決して起きて欲しくないと思っています。大切な人を失うことや、人から軽蔑されたりしたら心が深く傷つくからです。
けれども、私たちが苦悩するのは、そうしたいやなことが起きるからではありません。そうではなく、本当はいやな出来事を受け入れることができないでいるからなのです。
心が傷つけば、当然それ相応の痛みが発生しますが、その痛みをいやがって拒絶してしまうのです。そうして、もう二度とそんな傷を負いたくないとも思うのです。
しかし、傷を負うということはその後も必ず本人の意向とは別にやってくるのです。逃れようとして逃れられないからこその苦しみなのです。
もしも、私たちがその痛々しい傷口から目を逸らすことなく、しっかりと見ることができるなら、痛みは和らぎ、そして苦しみは消えてしまうのです。
都合の悪いことがやってきて、心の傷口がパックリ開いてしまったら、それに対して何もせずにただただそれを見ることです。
見るだけでいることができれば、苦しみはありません。痛みとともにいて、後に残るのは安らいで静かになった心だけです。
そこにのみ、本当の心の平安があるのです。いやな出来事が身に降りかかってきたら、このことを是非とも思い出すことです。