私たちは、自分という存在は、一人のまとまりのある人格だと思い込んでいます。まとまりがあるということは、そのど真ん中に自分の中心となる部分を持っていると感じているのです。
その感覚がどれほど曖昧であろうと、中心がなければ自分はバラバラな無価値な何かに成り下がってしまうと思っているからです。
その中心らしきものは、言ってみれば自我(エゴ)の中心なのです。だからこそ、もしも自我がないなどということになったら不安と恐怖でどうしたらいいのか分からなくなって、パニックになってしまうかもしれません。
その一方で、自分の内側へと意識を向け続けていると、それまで中心だと思っていたものはそのままにして、まったく異質な別の中心を少しずつ感じることができるようになるのです。
それは、いわば存在の中心、全体性の中心なのです。この中心は、宇宙の中心であり、あなたの本質の中心でもある、すべての中心のことです。
そこへ意識が向かうと、当然のことながら肉体としての自分が移動していたとしても、その中心は微動だにしないということを実感することができます。
全体の中心が動くということは在り得ないからです。クルマの運転をしているときに、運よくその中心へと意識を向けることができると、クルマは走っているのですが存在の中心と一つになっている自分はまったく動いていないということが分かります。
それは歩いている時よりも、もっと容易にその感覚になることができます。きっと、運転中はシートに腰かけているだけで、身体のどの部分も動かしていないからなのでしょう。
以前、歩きながら何度もこの不動の感覚を味わいたいと思って、練習したこともあったのですが、今思えば運転中のほうが遥かに容易くそれを味わうことができると分かります。
ただし、私は覚醒しているわけではないので、自我の中心が完全に消え失せるということはなく、結果として両方の中心を同時に感じるという状態になっているのです。
この存在の中心と自我の中心の両方を同時に感じることを、あらゆる場面で継続することができるなら、これほどすばらしいことはないと今のところ思っています。
存在の中心と少しでも繋がっていると、その奥深い静寂さが、自我の方へも伝搬してくるらしく、運転中に腹を立てることが急に減ってしまうのです。
そしてその余韻は、しばらく続いてくれるのです。もっともっと存在との二重生活を満喫できるように、訓練することができるといいのですが…。