非常識第二弾(人格を捨てる)

昨日のブログの内容(知識を捨てること)は、もしかしたら読者の反感を買うかもしれないなと思いながら書きました。それは、一般常識に反する内容を含んでいるからです。

なぜ常識に反すると拒絶や否定をされる可能性が出てくるかというと、私たちは常識というものを自分を守るために身に着けてきたからです。

その大切な防弾チョッキ、心の鎧をけなされてしまえば、それは危険なことなので抵抗する気持ちが顕われるのも当然のことなのですね。

けれども、アインシュタインの言葉に、「常識とは18歳までに身に付けた偏見のコレクションのこと」というのがあるように、常識というのもある種の知識のようなものに過ぎません。

防衛のために使われるいかなるモノも、醜いだけでなく、自分を不自由にすることになるのです。防衛の原動力は恐怖であり、そこには愛がないからです。

ということで、今日も非常識な内容を書いてみようと思います。以前ある人と話をしている時に、自分のアイデンティティなんていらないという内容のことを言ったときに、激しく抵抗を受けました。

相手は到底受け入れがたいという感じだったのですが、なかなかうまく説明できずに終わってしまった記憶があるのです。実は、その話しをする少し前に、私自身が自分は大澤富士夫ではないという感覚を強く持ったことがあったのです。

そのことをただ伝えたかったのですが、当り前ですが失敗したのですね。アイデンティティも人格も私たちの本質からみれば、周辺で起きていることなのです。

もしもあなたが自分の人格を大切だと信じているのでしたら、その奥には確実に不安が横たわっているはずなのです。なぜなら、人格とは砂上の楼閣だからです。気づいているかどうかは分かりませんが。

人格というのは、そもそも他人によって作られたものです。その上に自分の経験という断片を張りぼてのようにくっつけて、その繰り返しによってでっち上げられたものなのです。

あなたの本質は、あなたの人格とは縁もゆかりもありません。人格は架空の産物に違いありません。人格を持った人物としてのあなたなど、本当は実在しないのですから。

人格を周辺に押しやり、新たな中心として自分の純粋な意識を据えるのです。こう書くと、それを意識的に行うことのように誤解されるかもしれませんが、そうではありません。

ある気づきとともに、それはやってくるものです。そのニュアンスが分かれば、きっとこの非常識さもただ愉快なものになるはずです。