内的ロボット

この話しは以前にもしたことがあるのですが、かつて会社員だったころ、オフィスがあった横浜から車で帰ってくるとき、走り出してすぐにケータイに電話がかかってきたのです。

夜中でも自宅まで小一時間かかるのですが、そのほとんどを電話で話しながらの運転だったのですが、もうすぐ自宅に着くというところで電話を切ってはっと気づいたのですが、その時自分がどこをどうやって運転してきたのか一切の記憶がないのです。

それは思い出せないというよりも、まったく自分が運転してきた感じがなかったのです。後になって、こうしたことはいくらでもあるのだと分かったのですが…。

その時クルマを運転していたのは、私ではなくて私の心の中にいる内的ロボットだったのです。私たちは何かを訓練して、うまくできるようになると、ごく自然にその仕事を内的ロボットへと渡すのです。

そのロボットは、私の代わりになって所定の手続き通り、いろいろな仕事を効率的かつ能率的にこなしてくれるのですから、使わずにはいられなくなるのも当然なのです。

ロボットに処理をさせておいて、自分は緊急の電話に集中することもできるし、場合によってはまったく他のことを考えたり行動したりもできるのです。

だからロボットは都合のいい道具なのですが、一方で大問題も発生するのです。それは、ロボットは突然のイレギュラーな状況には対応することができないということです。

あるお笑い番組の中での私が大うけしたネタなのですが、話し手がタクシーに乗って移動中に疲れて寝ようとすると、信号待ちで停車するたびに、その運転手さんがサイドブレーキを引く「ギ~~」という音がするのです。

その音が結構耳障りで起こされてしまうために、サイドブレーキを使うのをちょっと控えて欲しいと伝えると、運転手さんは了解してくれるのですが、結局停まるたびにサイドブレーキを引いて「ギ~~」という音を出してしまうのです。

そのたびに、運転手さんは丁寧に謝ってくれるのですが、最後に彼が言ったのは、「だめだ、どうしてもやっちゃう~~!」だったのです。

つまり、タクシーを運転していたのは運転手さん自身ではなくて、彼の中にいる内的ロボットだったのです。ロボットだからこそ、臨機応変に手順を変えることができなかったというわけです。

そしてもう一つ、ロボットを使うときのとてつもなく大きな問題があるのです。それは、ロボットを使うとあなたの思考が野放しになって、止まらなくなる可能性が大きいということです。

ということは、どれほど一生懸命瞑想に勤しんだとしても、ロボットによる生活を続けている限り、思考の虜から抜け出せなくなるということです。

ロボットに仕事をさせないためには、あなたが意識的になってその仕事をするように注意深くいる必要があるということです。それが意識的に生きる、あるいは瞑想的に生きるということなのです。

比較せずにいられないマインド

自分や自分の人生についての自己評価というのは、人によって本当に様々ですね。不運の星の元に生まれてしまったと感じてる人もいるでしょう。

あるいは、自分の人生はどういうわけか、そこそこいいんじゃないの?と思ってる人もいるはずです。何をやってもうまく行かないと感じている人からみれば、次から次へと自己実現を進めているように見える人をずっと羨ましい気持ちで見ているはずです。

もしも、自分と自分の人生を他人のそれと比較してしまえば、そこには必ず嫉妬の嵐がやってきます。その嫉妬は私たちの心をいたく傷つけることになるのです。

それなら、比較することを止めればいいだけなのですが、残念ながら私たちは生まれたときからずっと他人との比較をし続けるようにと、条件付けされてしまったのです。

それは非常に強烈な一つの洗脳とも言えるものです。もしも仮に、私たちが他の動物や植物とも比較されるように洗脳されていたら、もっと悲惨なことになったかもしれません。

でも私たちに与えられた洗脳は、人間同士の比較だけだったので、他人と比較するということだけを今日までずっとやり続けてきたのです。

勿論、比較の度合いや方法も人によってさまざまです。あまり強くは比較しないでいられる人もいれば、強烈に比較してしまう人もいて、その傾向が強いほど人生を苦しむことになってしまいます。

比較したうえで、俺ってイケてるんじゃないの?と思っている人もいるかもしれませんが、そういう人でも比較して都合の悪い結果が出た部分については、抑圧して気づかないようにしているのです。

つまり、あらゆることを比較した上で、すべてを包み隠さずに見るならば、いい精神状態でいるということはほぼ不可能なことなのです。

残念ながら、比較を急に止めることはなかなか難しいことです。ですので、まずは比較をどうしてもやってしまう自分の心の部分を正面から見て、丸ごと受け止めてあげることから始めることです。

比較せずにいられないサブパーソナリティをいつも抱きしめてあげることです。そして、その抱きしめている側の自分は、完全に比較が落ちていることに気づけばいいのです。

気持ちいい瞑想って!?

目を閉じて、内側から眉間のあたりを凝視するという瞑想の方法があって、最近それを試してみているのですが、今日すごく変な気分になりました。

というか、今もその余韻に浸っている感じが続いているので、いつものようなブログの尺を書く気がしないのです。まったくの自己流でやっているので、これでいいのかどうか…。

師がいないって、こういうとき辛いですね。でも、なんでもありの気持ちはずっと持ち続けているので、不安になったりすることはないのです。

生まれて初めて、時間のことを一切気にすることなくずっと瞑想をしていたのですが、それは退屈する暇がなかったからです。何か得体の知れない快感のようなものが奥からやってきてたのです。

今まで結構真面目に瞑想をしていたのですが、そんな気持ちも吹っ飛んでしまって、なんだか子供の頃以来ずっと忘れていた気分を味わったのかもしれません。

この方法で瞑想すると、自分の思考を見ることができるようになるらしいのですが、私の場合はその思考が全部画像となって出てきました。

だから、一般的にイメージしている無念無想とは似ても似つかない感じで、これ本当に瞑想なの?と疑いながらやっていました。なので、今のところ誰にもお勧めできません。

がしかし、とにかく気持ちいいのです。今日のブログはこのくらいにして、また続きを楽しみに行ってきま~す!

真実を語る言葉はすべて方便

「嘘も方便」という言葉がありますね。この「方便」という言葉の意味を辞書で調べてみると、およそ次のように書いてあります。

『人を真実の教えに導くため、仮にとる便宜的な手段。 ある目的を達するための便宜上の手段。』

嘘そのものはよくないけれど、場合によっては便宜上嘘を言う場合も在り得る。その裏には、仮に本当のことを言ったとしても、目的を達せられなければ何にもならないという意味も込められています。

ところで、この方便という言葉は、元々が仏教用語のようですね。真実を探求している人に対して、どうやったらその人を真実に導くことができるのか。

単純に真実を伝えればいいように思いますが、残念ながら真実を語ることは不可能なのです。真実は決して、言葉によって伝えることはできないのです。

言葉は思考による表現でしかないからです。だから、師は弟子に対してあの手この手を使って、何とか真実に気づかそうとするのです。

その中でも、言葉を使って真実への気づきを与えようとするのですが、師はその言葉が決して真実を現わしていないと気づいていながらも、伝えるその言葉こそが「方便」ということなのですね。

師が語る言葉に限らず、どんなものであれ真実について伝えようとする言葉というものは、すべからく方便でしかないということです。

私たちは、そのことを決して忘れてはなりません。人類の歴史上最大の発明は、間違いなく言葉であったはずですが、その言葉がまったく真実に対しては通用しないのですから、本当に困ったものです。

けれども、だからこそ真実は無限に深淵なのです。ある言葉がそのまま真実を表現できるとしたら、それは陳腐でありふれたこの世界の何かの知識と同じものになってしまいます。

真実とは、言葉はおろか私たちが考えうる限りのどんな想像力を使っても、想像することすら不可能なものです。もっと端的に言えば、「私」が真実に触れることは不可能です。

「私」が消えたとき、そこにのみ真実が在るのですから。でも、この言葉も単なる方便に過ぎないのです…。

夢は24時間続いている

日中、目覚めて活動している時には、私たちの表面意識が主人となっていますが、夜眠りに乗っ取られてしまうと、誰もが無意識状態となりますね。

その睡眠中には、私たちの潜在意識の中で目まぐるしく起きている現象が、夢となって現れるのです。夢は、本人が記憶していようといまいと、ほぼ必ず誰もが見ているものです。

なぜなら、夢というのは意識の表面には出してもらえなかった何等かの精神活動、自覚のないままに抑圧された様々な想いや感情が、形となって現れ出てくるものだからです。

つまりは、その時々を十分に生きて来なかったために、残してきた過去の精神エネルギーが、外に出ようとして潜在意識から上へと浮上しかけてるもの、それが夢だったのです。

ところで、夢は睡眠中にしか見ないものと誰もが思っているのですが、実はそうではないらしいのです。表面意識が活動している日中であっても、潜在意識の中で夢は起きているのです!

ただ、目覚めているときには、現実の世界に意識が向いてしまっているために、心の奥で起きている夢に気づかなくなっているだけなのです。

だから周囲にある現実の世界から、幻想の方へと意識が向いてしまえば、場合によっては白日夢というような現象も起きることがあるわけです。

このように見てみると、夢というものに対する認識が変わりますね。夢見とは、夜寝ていることと関連があるわけではなく、常に過去に残した精神エネルギーが現在のあなたを追っかけてきているようなものなのです。

ということは、深く瞑想することができれば、潜在意識の中へと深く深く入っていくことによって、能動的に夢を見てあげることができるようになるはずです。

猛スピードで夢を見てあげることができたら、いずれは夢の原動力は消化されて行ってしまい、もう二度と夢を見ることがなくなってしまうでしょう。

そうなったら、あなたは本当の眠り、本当に深い眠りを体験することになって、朝の目覚めはきっとこれまで経験したことのないくらいに清々しいものになるはずです。

自分との隙間を見出す

映画館で、スクリーン上に映された映像と、スクリーンそのものとは互いに距離はゼロでくっついているのですが、それでもスクリーンは映像の影響を受けることはまったくありません。

それは、あなたの本質と、あなたという人物およびその人生との間にも言えることなのです。ある人格を持ったあなたという人物が、あなたの人生の中にどっぷりと浸かりながらを生きているわけです。

けれども、そこには見ることも触れることもできないながら、スクリーンのようなバックグラウンドとしてのあなたの本質が介在しているのです。

それは近すぎて、あまりにも当たり前過ぎるために全く気づくこともできないのです。距離はゼロなのですが、接触すらしていません。

それは例えて言えば、水の中にあって濡れることのない蓮のようなものです。あなたが、これが自分だと信じて疑うことすらしない「私」、それは残念ながら思考の産物なのです。

生まれたときからの周りからの洗脳のシャワーを浴び続けた結果、これがどうも自分らしいと信じてしまったのです。それが、あなたの身体であり、少ししてあなたのマインドとなったのです。

あなたは自分の本質、本当の自分に気づく前に、徹底的に洗脳を受けて、あまりにもそれに順応してしまった結果、自分のことは分かっていると思い込むことになったのです。

強く思い込むと、それは本人にとっての真実となってしまうのです。一度そうなってしまったら、何かよほどの力が働かない限りは、そこに疑問を持つことすらしなくなってしまいます。

しかし、注意深く生きていると、あなたが何から何までただ信じているだけだということに気づくことができるのです。その中には、自分とはこういう人物だということも含まれます。

そうして、信じることを一旦脇に置いてみると、ものすごい不安がやってくるかもしれません。自分は今まで生きてきてこれだけのことは明確になっていると思い込んで来たからです。

自分は何も知らない、一番わかってないのは自分の正体だったと気づくとき、非常に幸運なチャンスがやってきたことになるのです。

自分の本質に気づく前に、是非試してみて欲しいことがあるのです。それは、自分という人物と少し距離を置いて、常に自分に注意の目を向けるようにするのです。

そのようにしてしばらく生活していると、徐々にですが人生にどっぷり浸かっていたそれまでの人生と、ニュアンスが変化してきます。

なぜなら、それまでの自分との隙間が見つかるからです。それは実に驚くべき変化を人生の中にもたらすことになるのです。

深刻さが少なくなり、人物としての自分を丸ごと受け止めることが当り前にできるようになってきます。これこそが真の癒しなのです。

子供の問題行動に感謝すべき

子供を持つ親の気持ちというのは、基本的には同じです。どの親も我が子にすくすくと育って欲しいと願っているし、間違った方向へ行かずに社会の中で立派に生きて行って欲しいと思っているのです。

そうした気持ちは愛からやってくるのですが、そこに親が元々持っていた不安が混じってしまうと、そのありがたい親の気持ちが却って子供の人生に悪影響を与える結果となるのです。

なぜなら、親の気持ちにゆとりがなくなってしまい、親の正しさを子供に押し付けてしまう可能性が高くなるからです。場合によっては、激怒や暴力なども起きるかもしれません。

そうなると、子供は親が自分のことを思って叱ってくれてるのだと理解できたとしても、恐怖によって心が委縮してしまい、自由な自己表現や感情表現ができなくなってしまうのです。

一生懸命過ぎる親にとっては、反抗しない子供の態度は都合がいいので、表面的には親子関係に問題はないと錯覚してしまうこともあるはずです。

けれども、子供のハートは恐怖によって閉ざされてしまうために、まともな成長が阻まれてしまうことになってしまうのです。

そして、ずっと内在していた子供の心の中の鬱憤、怒り、「自分の自由にさせてよ」という正直な気持ちの抑圧が限界を迎えるときがやがてくるのです。

それは確実にやって来ます。それは、不登校という形として顕われるかもしれないし、非行のような形をもって現れるかもしれません。それが、どんな行動であれ、それはすべてが問題行動として知られているものなのです。

もしも自分の子供に何等かの問題行動が起きたときには、その行動だけを問題視して解決しようとしても、全く意味がありません。親が力づくでそれを修正しようとすればするほど、更に深刻な問題行動を引き起こすことになりかねません。

また、子供の気質が繊細であればあるほど、こうした傾向は強くなるものですし、家族の誰かを悪者にするのも得策ではありません。

問題行動を起こしている子供自身よりも、まずは両親の心の癒しが必要であると気づくことです。親が大切なことに気づくチャンスを、子供が与えてくれたと理解できると、何かが変化し始めるはずです。

役割のローテーション

以前に数種類の講座を開催していたことがありました。ホームページのアップデートをさぼっているので、その頃の残骸をまだ見ることができると思いますが…。

講座の目的としては、例えばカウンセラー養成講座であれば、名前のとおりカウンセラーになっていただくためのものだったりするのですが、実は別の影の目的もあったのです。

それは、役割のローテーションなのです。つまり、いつもクライアントさんとしていらしていただいていた方々に、カウンセラーの役をやっていただくことで、癒しについてのより深い理解を得ることができると考えていたのです。

実際に受講された方であれば、この意味するところを肌で感じて下さったはずだと思うのですが、立場を変えて体験するということの恩恵は、想像以上のものがあるのです。

私たちが日頃沢山抱えている何等かの役割というものがあるのですが、たとえば親としての役割、子供としての役割、上司や部下としての役割、医者と患者等々。

私たちは知らず知らずのうちに、そうした役割を固定化してしまい、自分の役割の立場からしか周りの物事を見ないようになってしまう傾向があるのです。

そうなると視野が狭くなり、相手の立場でものを考えることを省略してしまうことになるため、円滑な人とのつながりに支障が出てきてしまうのです。

カウンセラーがたまにはクライアントになってみたり、教師がたまには生徒として生徒から教えを受けてみたりすると、きっと価値ある経験ができるはずですね。勿論その逆も然り。

妻と夫も互いに、相手と役割を一時的に変えてみることができるなら、何かそれまで気づかなかった相手の隠された苦労などに驚くこともあるかもしれません。

実際にそうしたことができないまでも、イメージの中で相手の役割を疑似体験することはある程度できるはずです。それは、もしかしたら自分にとって都合の悪いことに気づいてしまう可能性だってあるのです。

気持ちにゆとりがある時に、もしも相手の立場を疑似体験してみようと思い立ったなら、是非可能な限り試してみることをお勧めします。きっと新しい発見があると思いますよ。

「罪悪感よ、いらっしゃい!」

恐怖と罪悪感というのは、どちらも自我(エゴ)にとってはなくてはならない武器なのです。もしも、この二つのエネルギー両方のシャワーの中で育てられたなら、その子はどうしようもない窮地に追いやられてしまうはずです。

親の怒りが激しければ激しいほど、子供の恐怖はとてつもなく大きなものになってしまいます。そうなると、子供は素直な自己表現ができなくなってしまうのです。

それは当然な成り行きですね。親自身は自覚のないままに、子供を自分の都合のいいようにコントロールしたいがために、怒りによって子供を恐怖で縛るわけです。

これだけでも子供の無邪気さ、無防備さは阻害されてしまうのですが、さらにその親が子供に罪悪感を感じるように仕向けるとするなら、そこでも子供は二重に自己表現を抑圧させられることになるのです。

特に、子供の感受性が鋭くて敏感体質であればあるほど、この罪悪感攻撃はツボにはまってしまうのです。繊細な子供がいつまでも親に反抗できずにいるのは、恐怖よりもむしろ圧倒的に罪悪感が原因なのです。

恐怖の方は、子供の成長とともに薄らいでいくものです。子供の身体が親のそれを超えるくらいに成長するようになると、子供はそれほど親に威圧されても恐れずにいられるようになるものです。

勿論それには例外もあって、いつまでも昔の親の恐怖にずっと縛られているという場合もあります。けれども、罪悪感の方が何倍も始末が悪いのです。

もしもあなたが、恐怖と罪悪感の包囲網に窒息しそうになって生きてきたなら、莫大な怒りが溜まってしまっていると考えて間違いありません。

癒しの最初のステップでは、その怒りを味わって味わって解放していくことです。そしてその次に、手がけなければならないことは、恐怖や罪悪感と対面することです。

とくに罪悪感は、じわじわとあなたの首を真綿で締め上げるような感じがするため、派手さはないものの確実にあなたの自由が奪われてしまうのです。

もうけっして罪悪感を恐れないことです。あなたが単刀直入に相手に自己主張するようになれば、必ず大きな罪悪感があなたを攻めにやってきます。

その時こそチャンスなのです。「罪悪感よ、いらっしゃい!」とつぶやいて、それをとことん見てあげることです。罪悪感から逃げずに、罪悪感と闘わずに、ただそれを迎え入れるのです。

もしもそのコツがつかめたら、もうあなたは罪悪感に人生を破壊されることはなくなるはずです。そのときにこそ、あなたは自分の本当の人生を生きることができるようになるのです。

ハートを開き、マインドを小さくする

14年前にサラリーマンを辞めて以来、知識を詰め込むために本を読むということが皆無になりました。それまでは、仕事の一部として活字を読んでいたのですから、それはそれで仕方のないことだったのですが…。

最近では、本を読む目的がすっかり変わってしまった感じがしています。それは仕事でもなければ、趣味でもない、じゃあ一体なんだろうと思ったのですが、一番近いのはこのブログを書くということかもしれません。

ブログを書くことも、本を読むことも決して必要不可欠なことではないのですが、人生の一部になってしまっているということなのですね。

本の種類にもよるのかもしれませんが、私の読み方というのは、ツーッと連続的に読むのではなく、かといってじっくりと内容を吟味しつつ読むというのでもありません。

しばらく読んでは一旦本を閉じて、目をつぶってしばらく静かにしているということを繰り返しているようです。目を閉じてる間に何をしているかというと、眠くなったら寝てしまう(笑)。

寝ないときには、それまで読んだことを感じているのでしょうね。言語というのは思考ではあるのですが、論理的に考えるというよりもハートで感じているのです。

私が読む本は、散文には違いないのですが、どこか詩のような趣があるので、文字を追うよりは行間に漂う芳香のようなものを味わっているように感じます。

もっともっと感受性が高ければ、きっと詩のようなものへと傾倒していたと思うくらいです。詩は言語を利用してはいるものの、思考よりもハートに近いものです。それが論理的ではないからです。

だから詩は素晴らしいのです。奥行があって、さまざまな人ごとに十人十色の解釈ができるのですから。それに比べて、論理は薄っぺらですね。

音楽にしても、絵画や彫刻などのあらゆる芸術は、直接ハートに向けて何かを伝える能力がありますので、閉じかかった現代人のハートを開かせる無限の可能性があるはずです。

ハートが開けば開くほど、それは同時にマインドの占める割合が小さくなることを意味し、それだけ自分の本質へと近づくことになるのです。

勿論瞑想は、場合によってはもっと直接的に本質へとあなたを向かわせることになるのです。