真実を語る言葉はすべて方便

「嘘も方便」という言葉がありますね。この「方便」という言葉の意味を辞書で調べてみると、およそ次のように書いてあります。

『人を真実の教えに導くため、仮にとる便宜的な手段。 ある目的を達するための便宜上の手段。』

嘘そのものはよくないけれど、場合によっては便宜上嘘を言う場合も在り得る。その裏には、仮に本当のことを言ったとしても、目的を達せられなければ何にもならないという意味も込められています。

ところで、この方便という言葉は、元々が仏教用語のようですね。真実を探求している人に対して、どうやったらその人を真実に導くことができるのか。

単純に真実を伝えればいいように思いますが、残念ながら真実を語ることは不可能なのです。真実は決して、言葉によって伝えることはできないのです。

言葉は思考による表現でしかないからです。だから、師は弟子に対してあの手この手を使って、何とか真実に気づかそうとするのです。

その中でも、言葉を使って真実への気づきを与えようとするのですが、師はその言葉が決して真実を現わしていないと気づいていながらも、伝えるその言葉こそが「方便」ということなのですね。

師が語る言葉に限らず、どんなものであれ真実について伝えようとする言葉というものは、すべからく方便でしかないということです。

私たちは、そのことを決して忘れてはなりません。人類の歴史上最大の発明は、間違いなく言葉であったはずですが、その言葉がまったく真実に対しては通用しないのですから、本当に困ったものです。

けれども、だからこそ真実は無限に深淵なのです。ある言葉がそのまま真実を表現できるとしたら、それは陳腐でありふれたこの世界の何かの知識と同じものになってしまいます。

真実とは、言葉はおろか私たちが考えうる限りのどんな想像力を使っても、想像することすら不可能なものです。もっと端的に言えば、「私」が真実に触れることは不可能です。

「私」が消えたとき、そこにのみ真実が在るのですから。でも、この言葉も単なる方便に過ぎないのです…。