「敬老の日」に思うこと

9月15日(月)は敬老の日ですね。私自身は、これまで敬老の日をまともに考えたことがありません。老人に対する敬意をきっと持っていないからなのでしょうね。

こういうと、何と不謹慎なと思われるかもしれませんが、勿論表面的には目上の人には丁寧な言葉を使うなど、ごく当たり前の常識は持っています。

けれども、心の底から誰かを敬うということが、ほとんどないというのが実情なのです。本質的には、人の年齢など何の意味もないだろうとどこかで思っているからです。

このブログでも時々出てくる、osho のことですが、彼の両親は、年老いてから何と彼の弟子になったのです。勿論 osho がそうさせたわけではありません。

彼らの意志で、自ら自分たちの息子の弟子になることを望んだのです。きっと彼らにとっては、すでに息子という人物としてのエゴは消滅したことを知っていたからなのでしょう。

親は常に子供よりも偉い、などということはありません。真実を求める人には、この社会の常識など本当にどうでもいいことになってしまうのです。

セッションに来られるクライアントさんの中には、時々幼いころに「親は絶対」という思いを強く持っていたという人がいらっしゃいます。

そうしたある意味で洗脳のようなものは、親の防衛から起こるのであり、子供はそれに迎合することでその子自身の防衛をすることになるのです。

心の癒しを進めて行くと、それにつれて防衛が減っていき、それに伴って常識やルールと言ったものから少しずつ離れていくようになります。

そうなると、敬老などという形式的なことには興味がなくなってしまうのです。身体が弱体化した人には手を差し伸べ、知恵深い人の言葉を真摯に聞くという、ただそれだけの当り前のことであればいいのです。

そこにはどんなルールも不要なのですね。

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