究極の生き方があるとすると、それは<存在>を信頼するという生き方。<存在>とは、この現象界を支えている背景、あるいは私たちの本質としての純粋な意識とも言えます。
<存在>を信頼するなら、自分に何が起きようと、それをあるがままに受け入れるということです。ところが、残念ながら私たちは起きていることを必ず思考によって解釈してしまうのです。
解釈すれば、それは自分にとって都合のいいこと、悪いこと、善悪、正不正などの評価をしてしまって、ただあるがままを見ることができなくなってしまうのです。
3.11で起きたことは、人の感性としては悲しいことだし、酷(むご)いことだと感じるのは当然のことです。それはそのままにしておいて、でも一方ではただそれを受け止めるのです。
この一週間くらいの間に、実は私自身にとってはあまり好ましいと感じないことが、連発で起きています。それも不思議なほどに重なってやってきます。まだ続いています。
勿論それが一過性のものであるということは分かっているのですが、早く好転して欲しいと思ってしまうのです。それも当然のことですが、その一方でそれをただ見ているという態度があればいいのです。
自分の内面がいつになく騒がしくなっているのですが、それを愛を持って放っておくことを忘れずにいれば、巻き込まれてしまうことがなくなります。
不都合な出来事には、そういった練習ができるという利点もありますね。ちょっと強がって聞こえてしまうかもしれませんが(笑)…。