自分さえも観念上の代物

慣れない法務局に行って、小難しい書類を提出して相続登記の申し込みをしてきたのです。それだけで、頭が痛くなる感じがしました。

名義を変更するだけで10万円近いお金が必要ということにも驚かされるのですが、それよりも何よりも、手続きの難しさには参りました。

最後は法務局の人に詰めの部分を手伝ってもらって、ようやく書類を提出することができたのです。書類に不備がなければ、一週間程度で無事に不動産の相続の処理が終わります。

土地と建物が自分の所有物になったからといって、これっぽっちも何かが変わるわけでもなく、ただただ国に代金を支払っただけという感覚なのです。

勿論、誰か知らない人の名義になったとしたら、それはそれでいずれは困った事態になるのだろうけど、誰かに脅かされない限りは、誰の所有物であろうと、家の住み心地は変わらないのです。

この社会で物事を円滑にするためには、取り決め事や約束事、あるいはルールなどを作って生活することは絶対的に必要なことですね。

例えば、信号機がなければクルマは大渋滞を起こして、使い物にならなくなってしまいます。けれども、そうしたことは生きるうえでの本質的なことではありません。

何が誰に所属しているかということなどに価値を見出してしまうと、互いの意味のない比較が始まって、人生を楽しむことが難しくなってしまいます。

自分は誰かの所有物ではないのと同時に、自分が誰かや何かを所有しているわけでもありません。単に、みんなが名前を持っている方が便利だというだけです。

名前に殊更の価値などはあるはずもありませんね。瞑想すれば、自分には名前も戸籍もあらゆる付帯するものはないと気づくことができます。

そして最後には、自分そのものすら観念上の代物だと気づくことになるのです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です