「私」というエゴは、空想上のものであって実在しない、という情報を知っているという人が増えてきたように思います。そういう情報が溢れてきているからですね。
けれども、これは情報ではありません。だから今まで沢山培ってきた知識の延長上にある、新たな一つの知識のように捉えてはならないのです。
このことを知識として捉えてしまうと、少し変なことになってしまうのです。例えば、覚醒して「私」というエゴが落ちたときには、私の人生はどうなるんだろう?とか。
私の能力を発揮することができなくなってしまうのではないか?といった疑問が出て来るのです。なぜなら、「私」がいない状態でどうやって私の能力を発揮できるというのだろう?と考えてしまうからです。
そもそも、「私」は存在していないのです。その状態で、今の人生が起きているわけですから、「私」が落ちたとしても基本的には何も変わりません。
むしろ私と一緒に自己防衛も落ちてしまうので、元々持っていた能力が今まで以上に如何なく発揮されるようになると考えられるのです。
私がなくなったら、どんな体験もできなくなると考えている人もいるかもしれませんが、体験や経験というのはただ起きているのです。
それを、「私」が勝手にこれは私の体験だと思い込んで、それをそのまま記憶の中へと溜めていくので、エゴは肥大化してしまったのです。
体験するのに「私」は不要だし、歩くのにも「私」は不要なのです。勿論、あなたの人生を生きるのにもあなたの中にいる「私」は不必要だということです。
私の中にいるエゴが落ちても、このブログを書くための能力は少しも損なわれることはありません。ただし、「私」が不在になってもブログを書き続けるかどうかは、そうなってみないと分からないことですけどね。