人のことを考える代わりに自己想起せよ!

グルジェフは弟子たちに、もっとも根本的なことの一つをいつも口にしていた。「人のことを考えるな。さもなければ、あなたはけっして成長しない」そして、それこそ世界中で起こっていることだ。誰もが他の人たちのことを考えている。

by osho

↑このことはもう数えることができないくらい、何度も繰り返しこのブログでも書いてきたことですね。

グルジェフはなぜ、「人のことを考えると、けっして成長しない」と言ったのでしょうか?それは、他人のことを考える最大の目的が自己防衛だからです。

そのことにしっかりと気づいている必要がありますね。外側で起きたこと、それに絡んでいる人々のことをあれこれ考えることで、自分の立場を安泰にしたいのです。

ここのところ連日テレビで放映され続けている相撲界で起きている事件。これなどは、1起きたことを100くらいに膨らませて報道しているとしか思えません。

マスコミは面白おかしく見てもらえればそれでいいのですから、ただ事実だけを放送したのでは尺がもたないということがあるのでしょう。

問題は、もっとプライベートな人間関係の中で、誰かのことをずっとグルグル考えてしまうような場合です。

自己防衛は基本的に意識が外側へと向いてしまうため、自分を見ることから離れてしまうのです。自己想起が疎かになってしまうということ。

しょっちゅう他人のことを考えてしまうという自覚があるなら、そういう自分の思考を見てあげる練習をすることですね。

 

目指すべき目的地などない

なんという冗談だろう?
あなたはすでにあなたがなろうとしているそれなのだ
もしすでにそれであるのに
しかもそれになろうと力んでいるのだとしたら
どうしてうまくいくはずがあろう?
破綻は絶対に確実だ
どうして
自分がすでにそうであるものになるなんてことができる?

by osho

↑これは osho の言葉の中でもとても気に入っているものの一つです。人生の苦悩のすべてが冗談だと言われたら、苦しみの最中にいる人にとっては腹立たしいかもしれません。

けれども、力めば力むほど人生は上手くいかなくなることを経験から学んでいるはずなのです。気づきたくないだけで…。

なぜなら、誰もが初めから目的地にいるからだと言っているのですね。目的地に立っているのに、それとは知らずにもがくのですから冗談のようだと言うわけです。

目的地にいるということは、目的地はないということと同じですが、これはエゴにとっては地獄を意味します。未来がまったく意味をなさなくなるからです。

未来がないということは、どんな夢も希望も持つことができないのです。その閉塞感をしっかり感じ取ることです。

世界最高峰の山を征服して悦に入っていることができるのは、ほんのひと時なのです。エゴは次の目的地をすぐに作り出して、何やら動き始めるのです。

エゴが設定するどんな目的地も真の目的地にはなりようがないということです。だって目的地以外のところにいたためしがないからですね。

このことの深い理解が得られるなら、どれほど人生を気楽なものにすることができるでしょう。人生はやり遂げるためにあるのではなく、このことに気づくためにあるのですね。

思考という歪んだ鏡

何かを考えている時、「私は考えている」ということに気づいていられれば、考えている自分は思考ではないと分かります。

歩いている時に、自分は徒歩ではないということと同じですね。では、歩いている自分、考えている自分とは一体何者か?を見ようとしてみて下さい。

そうすると、私たちは直接その自分を見ようとする代わりに、思考を使って自分についての情報を検索しにいってしまうのです。

つまり、思考という歪んだ鏡に照らして自分を見るということをずっと続けてきたのです。一度も直接自分を見ようとはしてきませんでした。

内省というのは、その思考鏡を使ってよ〜く自分を見ようとすることです。催眠療法などの心理療法も同じです。

それが一般的な癒しにとって有効なのですが、直接自分を見るということには繋がらないのです。

思考鏡を使わずに、ただただ自分を見ようとすると、自分の姿を見ることができないということに気づくはずです。

思考はそれを許さないのですが、思考に気を使う必要はまったくありませんので、そのままを受け入れてしまえばいいのです。

そうすると、自分がナニモノでもないということに気づくはずです。とても簡単なことです。そのときに、ようやく自分の本性は思考では捉えられない何かだと分かるのです。

実在とはそういうものなのですね。

自己改善がエゴを維持させる

改善?!
何を改善したところで
あなたはいつまでも不安と不幸から逃れられまい
なぜならば
改善しようというまさにその努力自体
あなたをあらぬ道に導いているのだから
それが<未来>に意味を持たせ
<理想>に意味を持たせる
そうして、あなたの心は欲望と化す
欲望して、あなたは道を誤る

by osho

↑これ、もう何度も何度も繰り返しこのブログでも書いてきたことですね。先日も、改善と変容は違うということを書いた記憶があります。

物事を改善しようとすることに問題があるというのではなく、自分自身をより良くしたいという思いこそが問題だということです。

自己改善がある限り、未来が消えることはありません。それがエゴの狙いなのですが、この社会ではそれこそが大切なことだと謳うのですから、騙されてしまいます。

不安や惨めさから逃れて安心を手に入れたいがために自己改善を思いつくのですが、残念ながらその自己改善への思い、努力こそが不安を維持してしまうのです。

それはリラックスしようとすればするほど、緊張してしまうということに似ています。自己改善は不安や惨めさとの闘いなので、不安や惨めさを強化してしまうのです。

エゴにとっては、未来、理想的な自分、それに伴って維持される希望や欲望こそが存続するための原動力になっているのです。

このことに深く理解することができるなら、自己改善に興味がなくなっていくはずです。それと同時に、自己否定にも意味がないということに気づいていくのですね。

「今とここ」がすべて

私はあなた方に言っておこう
行くところなんかどこにもない、とね
ここがすべてだ
全存在はこの瞬間において絶頂に達しているのだ
それはこの瞬間の一点に集中しているのだ
全存在はすでに
この瞬間の中に流れ込みつつあるのだ
在るところのすべてはこの瞬間に流れ込んでいるのだ
いまとここ

by osho

確かに私たちは、歩いてでも乗り物に乗ってでも、どこへでも好きな場所へ行くことができますね。飛行機に乗れば、地球の裏側へでも行けるのです。

けれども、それでも在るのは「ここ」だけだと言っているのです。osho が言っているのは、あなたの周りの景色が変わろうとも、あなたがいるところは常に、「ここ」だということ。

私たちの実在にとって、場所という概念はないのです。全体性と言おうが、純粋な意識と言おうが同じこと。空間移動というものがないのです。

分離があるという幻想の中でのみ、移動というものが可能となるのです。個別性、局所性がないのであれば特定の場所というものは消えてしまうのです。

「今ここ」とは、流れる時間も、移動できる空間も、そのどちらもが幻想だと言うことに違いありません。

この話は、エゴにとっては息が詰まるような感じがするかもしれません。もしもいやな感じがするなら、次のようにイメージしてみてください。

自分の身体が膨張して、果てしなく膨張を続けていって、しまいにはこの宇宙と同じ無限の大きさになってしまうと。

そうなったら、さすがに移動することはできないと分かりますね。そしてそれが息苦しいということではないと気づくはずです。

 

ターゲットのない注意深さ

気づいている状態を続けるためには、思考に頼る代わりに注意深くいることがどうしても必要なのです。

注意深さといっても、なにかを注意深く凝視するような一点集中ではなくて、注意深く耳をすますというイメージです。

というのも、視覚はある場所にターゲットを絞るものですが、聴覚は絞らなくても機能するからです。

全方位からやってくる音に対して、まんべんなく聞き耳を立てる感覚が理想的な注意深さに近いということです。

周囲の静寂に耳を傾けようとするとき、自然と目を閉じることが多いと思うのですが、あれは視覚を遮断してより注意深くあろうとするからですね。

けれども慣れてくれば、目を閉じる必要がなくなってきます。目は開いていても、何も見ずにいられるようになるからです。

それと同じようにして、注意深くあるためには聴覚を使う必要もないということが分かってきます。

なぜなら、元々注意深さとは視覚や聴覚といった感覚とはまったく異なるものだからですね。

注意深さにはどんなターゲットも必要ないのです。だから言葉で表現すると、意識に意識を向けるといったようなつかみどころのないものになるのです。

分かりづらいかもしれませんが、それにもかかわらず熱心に練習を繰り返しているうちに、ターゲットのない注意深さを体得できるようになるはずです。

 

思考がこの世界を彩っている

常に動き続けている私のマインドの思考が、あるときにパタッと停止してしまったことがあったのですが、そのときには時間というものはないということがはっきり分かっていました。

時間などというものはないということは、その前から知識として知ってはいたのですが、その知るということと、分かるということには天と地との違いがあるのです。

私たちが日頃使っている「知っている」という言葉は、たいていが知識として知っていることを指すのです。

たとえば、誰でもみかんを知っていますが、それはみかんという概念を知っているということ、そしてみかんについての情報を知っているということです。

それを略してみかんを知っていると表現しているに過ぎないのです。残念ながら、目の前にある「このみかん」を知ることはできません。

せいぜい口に入れて、甘いとか酸っぱいということを知るだけで、そのみかんを丸ごと知ることはできないのです。

もしも思考を完全に停止してしまうと、みかんという概念すら使えなくなってしまうので、どれほどそれを見つめて見たところで、そこにどんなみかんも見出すことができなくなるのです。

無思考状態において、後に残るのは気づきだけなのです。話を元に戻して、時間がないということの気づきを、どんな言葉でも説明することはできません。

真に「知る」とは、結局気づきのことを指すのでしょうね。気づきを説明することは不可能です。なぜなら、そこには思考が入る余地がないからです。

私たちの生活の99.999999…%が思考で彩られているということを言いたかっただけなんですけどね。

物質でもエネルギーでもない何か

いつの頃からなのか、気がついたら物理的なことよりも精神的なことの方がずっと崇高なものだという観念が出来上がっていましたね。

きっと目に見えて手に触れられる具体性のあるものは当たり前のものであって、捉えどころのないもの、神秘的なものの方がレベルが上のような気がするのでしょう。

もしかしたら物理的な存在である人間よりも、姿が見えない神の方が偉大だという感覚から来ているのかもしれません。

けれども、アインシュタインの相対性理論によれば、物質とエネルギーは互いに変換できるものだということです。

もしも精神性が一種のエネルギーだとすれば、物質となんら違いはないということになりますし、個人的にも今はそれが当然だと感じています。

自分は物理的なこの身体でもないし、マインドという精神的なエネルギーのかたまりでもない。両者には本質的な違いはないのですから。

そのどちらでもない自己とは一体何か?残念ながら、この問いには答えがないのです。どんな答えであれ、不適切なものになってしまうからですね。

こうした問いかけが消えたときに、無限の静寂とそれ自体への気づきだけが残るような気がします。

思考が二元性を生み出す

生におけるもっとも美しい瞬間、それは混乱も確かさもないときだ。人はただ、在る。鏡があるがままを映し出している。どんな方向性もなく、どこにも向かわず、何かをしようという考えもなく、未来もなく…ただ完全にこの瞬間に、とてつもなくこの瞬間に在る。

by osho

思考はいつも二元性の中にある。二元性の中でしか活躍できないからです。というよりも、思考こそが実在しない二元性というものを生み出している張本人なのです。

だから思考では、混乱も確かさもないという瞬間を捉えることができないのです。思考はどちらでもないというのを最も嫌うからです。

混乱も確かさもない、それはただ在ると言っているのですが、それは在り方に違いはないということですね。

さらに言えば、存在するということと存在しないということの、どちらでもないというのも思考には想像することができませんね。

けれども実在は思考などに構うことはありません。量子力学の世界においては、存在するか存在しないかのどちらでもない世界を扱うのです。

私は個人的に、思考が降参せざるを得ないとき、何かしら無情の喜びのようなものを感じてしまいます。思考が白旗を挙げるとき、自動的にサレンダー状態になっているからなのでしょうね。

そのくせ、一方では思考を使ってあらゆるものごとを完全に把握したいという根深い願望も持っているのですからやっかいです。

どちらをメインにして生きればいいかというのは、↑上の osho の言葉を読めば明らかなんですけれど…。

ただ淡々と見守る

身体には健康なときもあれば、病気のときもある。見守ってごらん。ただ見守っていれば、突如として、あなたはまったく違った存在の質を感じ取るだろう。あなたは身体ではない。身体はもちろん病むが、あなたは病んではいない。

by osho

お腹が痛いときには、それを見守ることで、そこに腹痛が在るということに気づくことができます。見守る側と腹痛には関連するものが何もないという気づき。

そのときに見守る側には、人間としての自分とはまったく違った質を感じることができると言っているのです。

身体はあまりにも身近な存在ではあるけれど、当然のことですが身体が何かを見守ることなどできないのです。

身体が病気のときには、文字通り身体が病気なのであって、あなたが病気なのではないということ。見守ることに病はないのですから。

それじゃあ、マインドはどうでしょうか?見守る側が身体ではないのは明白ですが、マインドは見守ることができるはずだと思うのです。

だとすると、自分はマインドだということになりますね。けれども、マインドは思考を使わずに見守ることができません。

マインドは、必ず見たものを思考のフィルターを通して解釈、判断してしまうのですから。もしも、私たちがただ見守ることができるなら、そのときに初めてマインドとの隙間ができるのです。

ただ淡々と見守るとき、そのときにだけ身体でもマインドでもない自分の本質を感じることができるのですね。