自己否定を小さくする方法

初めに、自分自身を批判するのを止めることだ。批判する代わりに、あなたの不完全さ、あらゆる弱さ、あらゆる誤り、あらゆる失敗を持つあなた自身を受け入れることから始めてごらん。完全であることを自分自身に求めてはいけない。それは不可能な何かを求めているだけだ。所詮あなたは人間なのだ。

by osho

来る日も来る日も、ずっと自分自身を否定し続けている人がいますね。どんな些細なことであっても、それを否定するためのネタとして使うのです。

そして否定的な自分を戒めて、何とかもっといい自分になろうとしてもなれないことを、また否定のネタとして利用するわけですから、キリがありません。

最初、こんな自分だから否定するのは当然だと思っている場合であっても、癒しを進めていくと、どうしても否定してしまうに変化してきます。

それは自己否定の原動力について、理解が深まってくるからです。自己否定の根っこは、エゴの成長段階に周囲から否定され続けていたことなのです。

親からの否定は、親の内在化によって自分の中に取り込むのです。そうなると、親に否定される前に、自分自身で自己否定をするように回路が組み込まれてしまいます。

このことが理解されると、今度は否定をやめようとしてもやめられないという状態へと変化します。この状態も中途半端で辛いはずです。

この先は、自己否定を止めようとするのではなく、自己否定をしてしまう自分に対して、意識的であろうとすればいいのです。

つまり内在化した「親二世」を見守るということ。このことによってのみ、その部分のエネルギーが小さくなっていくのです。

変容と改善は天と地ほど違う

変容とは磔と復活を意味する。変容とは、今あるあなたが死に、何かが起こり、誰が生まれるか、あるいは自分はどうなるのか、自分でもわからないあなたが生まれるという意味だ。ひとつ確かなことは、あなたは今あるあなたと同じではないということだ。誰にその覚悟ができているだろう?

by osho

癌を患ってから会社を辞めるまでの半年くらいの間のどこかで、少しだけ分析心理学なるもののセッションを受けていたことがありました。

自分が見た夢の内容をセラピストに話すことで、それを分析してもらいながら自分の奥深くに何が在るかを知っていくというものでした。

そのときに非常に印象的な夢を見たのですが、それは生まれ育った家が大型クレーンの先についた鉄の大玉で、バンバン破壊されていくというもの。

その有様を少し遠くから見ているだけなのですが、まったく感情の揺れがなく淡々を見つめていたのです。

これは今までの自分を支えてきた幼いころの自分とその環境の破壊、あるいは死を意味するのだと言われたのですが、そのときにはあまりピンときませんでした。

けれども結果として仕事を辞めて、人生の大転換を迎えることになったのです。生き方や考え方、物事の捉え方などが変化したのでしょう。これは自己改善とは言えないようなものでした。

その後、今の仕事をするようになってしばらく経ったときに、昨日までの自分と明らかに断絶したと感じたことがあったのですが、このときも自己改善という要素は見つかりませんでした。

osho の言う変容とは、改善とは全く異なるものだということがよく分かるのですが、確かに変容には自分のある部分の死が前提になるのかもしれません。

死なないにしても、その部分が非常に小さくなって萎びていくことでしか、真の変容はやってこないということですね。

だからいつも、自分を改善しようとしないで下さいとお伝えしているのです。改善しようとすると、これまでの自分が頑丈にそこに張り付いてしまうからですね。

起こっていることが、起こっている

東洋では、神は善くもなければ悪くもないと言われている。何であろうと、起こっていることが、起こっている。そこには、いかなる道徳的な価値づけもない。それを善いとか悪いとか言うことはできない。あなたがそう言うのは、特定のマインドを持っているからだ。

by osho

↑こう言われると、特定のマインドを普遍的なマインドに変えていければいいのではないかと考えてしまうかもしれません。

たとえば、新興宗教などによって深く洗脳されたマインドを持ってしまった人の場合、その洗脳を解除することができれば、普通人として生きていけるようになるかもしれません。

これほど極端な例でないにしても、マインドが持ってしまった特定の価値付け、意味づけ、判断などがなくなれば、よりシンプルな人生になるはずですね。

それはある程度は成功するかもしれませんが、マインドというのはそれほど単純なものではないのです。

それはマインドの働き、マインドのメカニズムを理解すればするほど、改善しようとすることが逆効果になると分かるのです。

マインドというのは、それ自体が存続するようにあらゆる手段を講じて生き延びようとするものなのです。自己改善もその一つに過ぎません。

マインドは非常に狡猾で策略家なのです。その裏をかいてあげればいいのです。家は人が住まなくなると痛みやすくなりますね。機械も使わずに放置すれば、あっという間に壊れていくのです。

それと同じことがマインドにも言えるのです。マインドにとっての最大の痛手は、使ってもらえないことなのです。

マインドをなるべく活躍させないようにすることができるなら、マインドは自然と力を失っていくのです。

それは自分に対して、愛を持って放っておく、ただ見るということに尽きるのです。マインドを動かさないように気をつけるのではなく、マインドの働きを見続けるのです。

そうすればきっと、起こっていることが起こっているという、この感覚に馴染んでいくことができるようになるはずですね。

プロセスを見守る

自分のプロセスを見守ってごらん。そうすれば、感じられるだろう。今日、お腹が空いたら、ただ見守ることだ。お腹を空かせた人がほんとうにいるのか、それとも空腹があるだけなのか?

by osho

↑あまりにも言っていることがシンプル過ぎて、それが返って思考では捉えようがない感じがしてしまうのですね。

私たちが、幼少のころからずっと絶え間なく思い込んでいること、それは〇〇な自分がここにいるというものです。

お腹を空かせた自分がいる、仕事をしている自分がいる、電車に乗っている自分がいる、誰かと言い争いしている自分がいる…。

そうなると急に現実は物語の様相を呈してくるのです。つまり、複雑さがやってきて絶対に物語から抜け出られなくなるのです。

けれども、osho が言うように、ただそこに「〇〇が在る」ということに気づいていられるなら、物語性は希薄になっていくのです。

ただ見守ることができるなら、思考が活躍することができなくなるくらいにコトはシンプルになっていくのです。

さあ、今日も自分のプロセスを見守ることにするとしましょう!

同一化をはずすには…

自分と、自分の前に立っている物事とのこの同一化をやめてごらん。そうすれば突然、あなたは自分がけっして病んだこともなく、空腹になったこともなく、生まれたこともなく、死にゆくこともないと分かるだろう。あなたは永遠の源泉そのもの。あなたは永遠なのだ。

by osho

同一化をやめるということは、自己の本質に気づくということです。この自分は、身体でもないし、マインドでもない。

ということは、つまり人生におけるあらゆる体験をした張本人でもなく、そこにはただ体験があっただけだということ。

痛みが小さかったり、気分の浮き沈みが小さければ、同一化は一時的とはいえ外しやすいのです。

けれども、痛みが大きかったり、ひどく落ち込んでいたり、人生と激しく戦っているときには、同一化は微動だにしなくなるのです。

もっといえば、同一化のことなどすっかり忘れて、人生に翻弄することになるのがオチなのです。

同一化をやめるための特別な手段などというものは存在しません。ただ出来る限り継続して意識的な状態を保つこと。これしかないのです。

意識的であれば思考に対しても気づいていられるので、思考との間に隙間ができて、その分だけ同一化に緩みが生じるのです。

ただし、それも一過性のものであって、継続しない限りすぐにまた元の木阿弥になってしまうのです。

努力という努力は不要なのですが、そこがまたシンプルではあるけれど、難しいのですね。

どれほど高尚な学問でもエゴのもの

哲学はすべてマインドのゲームだ。マインドはそれを通して過ちを犯す。だが、真理は、あなたが無心の境地にあって初めて知られうる。だから、哲学者はけっして真理を知るには至らない。哲学が完全に、完璧に落とされないかぎり、人は真理が何であるかを、あるいは神が何であるかを知ることができない。

by osho

哲学とは、思考を駆使して難解なことを解き明かそうとする学問だからこそ、哲学者が真理を知ることはないのです。

どんな分野の学者であれ、その学問が思考によって成り立っている限りにおいては、その学問を落とさない限り、その学者が光明を得ることは不可能だと言っているのです。

哲学はとりわけ思考をフル回転させるので、エゴが活性化され続けるのです。私にとっても、かつて哲学がとても魅力的に感じていたことがありました。

物事の奥深くまで分け入って、普段なら見過ごしてしまうような当たり前と思えることまで解明しようとする姿勢が好きだったのでしょう。

けれども、今は哲学がただの娯楽に過ぎないということが分かったのです。だから、osho はそれをマインドのゲームだと言っているのです。

マインドが落ちて、あるいは言葉がなくなって始めて思考が入り込まない虚空が顕れるのです。

それまで霧が立ち込めたようになっていた世界が、鮮やかさを取り戻すのです。と突然、すべての物語が消えて、あるがままの世界が見えてくるのですね。

 

課題を欲するのはエゴのサガ

マインドは満ち足りると存在できない。それは飢えていなければ存在できない。マインドは飢餓状態でなければ存在できない。あなたが、すっかり満たされ、渇望も飢えもなく満足していたら、マインドは朝日のなかの露のように消える–あなたは二度とマインドを見出すことがない。

by osho

↑これこそが、私たちが決して満たされることがない本当の理由なのです。マインドおよびそれを牛耳っている「私」というエゴは、飢えが必要なのです。

セッションの中で、今回の人生での自分の課題を知りたい!と言われるクライアントさんもいらっしゃいます。エゴは課題が必要なのです。

課題とは、なすべき事柄、やるべき仕事、何が不足していて、どうそれを改善していけばいいのかということ。課題は未来に意味を持たせてくれるのです。

未来があれば、渇望があり、そうすればエゴとマインドは生き永らえることができるのです。だから、課題があると思えば活力が溢れてくるのですね。

エゴが作ったこの社会では、それはとても前向きでいいことだと教えられるのです。そしていつかは満ち足りるはずだというあり得ない幻想を抱くことになるのです。

それが悪いことだといっているのではなく、もっと深い部分に気づくことの方が悪あがきせずに済むのです。

人生に幻滅することができたら、絶望を感じることができるなら、期待、希望、理想、未来などを目指す代わりに、マインドのザワつきが小さくなるのを感じるチャンスなのです。

真実を邪魔する張本人

神は二がないときに存在する。あなたがいないとき、いつもそこにあった何かが明瞭になる。だが、あなたゆえに–混乱であるあなた、苦悶であるあなた、悪夢であるあなた–まさにあなたゆえに、それを見ることができなかった。あなたは、目のなかの塵だ。あなたは、あなたを取り巻く暗闇だ。

by osho

私たちには、真実を見ることができません。たくさんのフィルターをかけてしか見ることができなくなってしまったからです。

でもそんな言い方よりも、「あなたは、目の中の塵だ。」って言う方が好きなのです。ほんの1mmくらいの塵でも、目の中に入るととてつもない妨害をしてしまう。

か細いまつ毛が目の中に紛れ込んで、それに翻弄されることがよくあるのですが、自分自身が真実を見ることを邪魔している張本人と言われるのは、何とも皮肉なことですね。

「あなたは、あなたを取り巻く暗闇だ。」光の世界を見たいのに、自分という覆いが被さってしまっているので、何も見ることができないのです。

「二がないとき」とはどういうことでしょうか?二とは、たとえば不安と孤独があって、それを何とかしたくて未来に希望を持つ。これが二の意味です。

二とは互いに補完しあって存在するペアのようなもの。もしもあなたが希望を捨てるなら、不安と孤独も消えてしまうのです。

不安や孤独がなければ、そもそも希望を作り出すこともなかったのです。どちらか片方がなければ、もう一方もないのです。このペアを二と言っているのです。

つまり二元性の世界ですね。二がなければ、非二元の世界となり、それを神と呼んでもいいのでしょう。

 

物語がエゴの餌

覚者とは、その真実を、自分が自分の世界の創造者だという真実を見抜き、それから退いた人のことだ。彼はもう創造しない。仏陀のような人は世界を持たずに、ここで、この世界で生きる。それがひとりの覚者であることの意味だ。彼はこの世界に生きる。が、彼にとって世界はない。

by osho

言葉を変えて言えば、覚者とは、この世界、あるいはそこでの自分の人生は、自分の思考が作った物語だということを見抜き、もう二度と物語を作らなくなった人。

仏陀のような人は、見抜いただけでなく、物語を作ることをしなくなってしまったと言っているのです。つまり、彼には人生がないということです。

なぜなら、彼という表現がもうすでに適切ではないのですが、彼というエゴは存在していないので、そこに人生があるはずがないということです。

私は当然のことながら、覚者でも何でもないので依然として日々物語を紡ぎ続けているのですが、それが物語だという感覚だけはあります。

瞑想中だけはその物語は停止してくれるのですが、普段の生活に戻ればすぐに思考が活動を再開してしまうために、物語が展開しだすのです。

これ全体が物語だと気づいたとしても、何もせずにいられないのがエゴなのです。するべき何もないという気づきとともに、人生はとてもシンプルになってきます。

けれども、エゴは消滅を恐れて、あれこれ画策しだすのですが、私の場合には、外側にある擬似的な物語を使って、エゴが死なないようにしているようです。

それが映画を観たり、テレビを観たりすることのようです。物語がエゴの餌であることは疑いようのないことだと、自分の生活から明確になりますね。

自分の名前との同化をはずす

見えない、聞こえない、話せないという三重苦を持っていたヘレンケラーが、モノには名前が付いているということに気づく感動的なシーンがありますね。

ずっと前に見た映画の1シーンが記憶に残っています。サリバン先生が苦心してそのことを教えているのですが、最初のうちは先生が何を言おうとしているのか分からずに、もどかしくて癇癪を起こしてしまうのです。

でもああそうかと分かった瞬間に、本人も先生も感動するという場面です。なぜサリバン先生がそれを必死で教えようとしたかといえば、それが分からなければ社会生活はおろか、人とのコミュニケーションができないからです。

私たちは、幼い頃から気づいた時には自分には〇〇という名前が付いていると知っています。それが当たり前のことであって、そのことに驚かないのです。

そしていつしか、その名前と自分とを同一視してしまうのです。つまり、自分には〇〇という名前がついている、というのではなく、自分は〇〇だと思うのです。

英語では、My name is 〇〇. というよりも、I am 〇〇. という方が一般的なのもそれと同じことなのです。

けれども自分は名前ではないので、瞑想していると名前がどこかに行ってしまいます。私は、あるとき瞑想とは関係なく、これまでの〇〇という自分の名前が自分から遠のいたと感じたときがありました。

もちろん対外的には、名前を呼ばれたらすぐに反応することはできますが、名前よりも本質の方に意識が向いているようになったのです。

クライアントさんの中には、もう〇〇(ご本人の名前)をやり続けるのが疲れた!と言われる方がたまにいらっしゃいます。

きっと幼い頃からずっと、周りから期待された役柄を演じてきたのでしょうね。ご本人の名前と役柄が一つになっていたのだと思うのです。

私は名前との同化がはずれるチャンスが来てるなと思うのですが、実際には同化を外すのは勇気のいることなので、なかなか思ったようにはいきません。

日頃から内側に意識を向けていると、自分は何者でもないという感覚が定着することで名前との同化がはずれてくるのです。それが自己の本質に気づくことに繋がるのですね。