<生>そのものが目的地

<生>には目的地というものはない。<生>そのものが目的地だ。目的地は内在する。<生>の価値はそれ自体のなかにある。それはほかの何かから来るのではない。<生>は未来のどこかにある何かの目的のための手段ではない。<生>はそれ自らが目的であり、それ自らが手段だ。<生>がすべてだ。

by osho

↑ということは、私たちが受けた教育が間違っていたということですね。何事にも目的意識を持って生きなさいと言われて育ったのですから。

目的のない人生は、その日暮らしの人生を想起させるため、自堕落でまるで価値がないかのようなイメージを与えてしまうのです。

しっかりと目的を定めて、それに向かってきちんとした計画を立て、いつかそれを成就するということが、素晴らしいことだと思い込んだのです。

だから未来がとても大切なものになったのです、過去よりも現在よりも。もっと言えば、未来がなければ生きていけないくらいです。

けれどもそうではないということです。まったく知らないうちに、勝手にここに放り込まれて、さあここでどうするか?ではないということ。

ここに放り込まれたことで、もうすでに目的は達成されたということです。それなら、後は自由気ままに生を楽しめばいいということです。

受けた教育の強い洗脳を早く外すことができた人が勝ちということですね。

マインドの反応をただ見る訓練

東京に大雪が降った日のことでした。夕方近くになって雪はもう止んでいたのですが、歩道にはかなりの積雪がありました。

近くのお店からの帰り道、歩道を歩いていると向こうから母親とその後ろに息子と思われる二人がやってきました。

雪のせいで普段よりはすれ違うときに余裕がなかったかもしれませんが、それでもよけなくてもいいぐらいの道幅はあったのです。

と突然、母親の後ろを歩いていたその彼が急に身体を半身にしたのです。まだすれ違うにはだいぶ距離があったのですが、それを見越して必要以上に身体をよけるようにしたのです。

彼はきっと10代後半くらいの青年だったと思うのですが、もしかしたら多少の知的障害を持っているのかもしれません。

彼の不必要とも思われる行動を見せつけられたときに、ふと気付いたのです。ああ、自分も心の中で似たようなことをしているなと。

敏感過ぎる感性を持っていると、他人に対する気遣いが過剰になってしまうのですね。相手に迷惑がかからないか、相手が嫌な思いをしていないかなどを非常に気にかけてしまうのです。

セッションに来られるクライアントさんには、このようなタイプの方が非常に多いのではないかと感じています。

だからこそ何かと生きづらいし、独りになりたいと思ってしまっても不思議ではないですね。

過敏体質を治すことはできないですが、自分のマインドの反応をただ見ているように訓練することは可能です。

実際それだけが唯一の楽になっていける方法なのですね。

思考の分類ぐせ

思考にはいろいろ特徴があるのですが、たとえば物事を「分類」「グループ化」、「仕分け」するという得意技があります。

どんな事柄でも、すぐにそれはいいこと、悪いこと、正しいこと、間違っていること、このように分類してしまうのです。

こうすることで、思考は無数に起きている出来事や現象などをより把握しやすくしているのと同時に、それが防衛に著しく寄与しているのです。

なぜなら、自分がいい人であったり、正しいことをする人であると考えるなら、他者からの否定を受けずに済むと思えるからです。

そうなると、自分を含めたこの世界全体を二つに色分けして、その部分だけをきわ立てる色メガネで見ることになってしまうのです。

これはあるがままを見るという自然な生き方と正反対の生き方になってしまうのです。人生を十分に楽しむことが難しくなるでしょうね。

なぜなら、悪い人、間違っている人に分類されないように、常に気をつけながら生きなければならないからです。

もちろん他者のこともその色眼鏡というフィルター越しにしか見れなくなるのですから、一過性の安心を得ると同時に気楽さを失ってしまうのです。

思考のこのような傾向を見抜いてあげることで、思考がそれをやろうとしている時に気づくことができるようになるはずです。

何であれ思考とは別に、すべてはただ在るように在るだけなのです。このことへの深い理解が、自然と防衛を小さくしてくれるはずですね。

内側には誰もいないという気づきが問題を消滅させる

自分自身の存在に深くはいっていった者たちは、完全な静寂を知るに至った。誰ひとりそこには見あたらない。そして、そこに誰もいないことに気づくこと。それはもっとも偉大な自覚だ。そうなったら、問題はすべて消える。なぜなら、問題を創りだす者が消滅したからだ。

by osho

もうすでに何度も何度も繰り返しこうした文章を読んでいるのですが、そのたびに新たな不思議な感覚がやってきます。

自分自身の内奥深くに入って行った時、そこに誰もいないことに気づくなどというのはひどい矛盾ではないかと考えるかもしれません。

そこで誰もいないと気づくのは一体だれか?と考えてしまうからです。だからこそ、やり切れない矛盾を感じてしまうのですね。

気づくのに誰かが必要なわけではないのです。気づくとか走るというときに、走る主人公が必ずいると思い込んでいるのですが、そうではありません。

気づくことも同じように、ただそこに気づきが在るだけなのです。主体も客体もともにないというのが真実です。

内側には誰もいないということに私たちエゴが気づくことはできません。エゴは実際には気づくのではなく、思考することだけが可能なのです。

真の気づきには、エゴは無関係なのです。私たちの本質は、思考で作られたエゴのような曖昧なものではないということです。

真実の光に照らされて、非存在であるエゴが消滅してしまうなら、もうどんな問題も苦悩も一緒に消えてしまうということですね。

惨めさが転生する

輪廻転生はないが、惨めさは転生する。何百万もの人々の傷が、進んで惨めになろうとしている人を探して、あなたの周りでうごめいている。もちろん、至福に満ちた人はどんな跡も残さない。目覚めた人は、鳥が空へと飛び立つように、どんな道も跡も残さずに死ぬ。

by osho

つまり輪廻はないけれど、惨めさのエネルギーは転生するということです。マインドという実体もないし、ましては魂などという個体はありません。

ただ在るのは感情や思考のエネルギーです。こうしたものだけが、肉体の死後も生き残り続けて、次の肉体を求めてうごめいているということです。

だからもしも自分のエネルギーを来世へ伝搬したくないのなら、生きているうちが勝負です。とことん自分が隠し持っている惨めさと向き合うこと。

人は惨めだという思いから逃げようとして生きているのです。それが人生というものの正体なのですね。

惨めさも実体はありません。ただ幼い頃に作り上げた思考のエネルギーに過ぎません。しかも脈々と受け継がれてきた無数の過去生のエネルギーが元なのです。

惨めだという思いはあるけれど、惨めという実体はないのです。すべては思い込みだという深い深い理解が必要なだけです。

この人生において、でっちあげられた惨めだという思い、それを探してすべてを白日の元にさらけ出してしまえばいいのです。

そうすれば、その思いは自然と消失していくはずです。それが目覚めて至福に満ちるということですね。

失ったものはない

ひとりのブッダは何を得るのか?
何も得はしない
むしろ反対に
彼はたくさんのものを失う
不幸
痛み
苦悩
不安
野望
嫉妬
所有欲
暴力
彼はすべてを失う
手に入れるということに関する限り
そこには何ひとつありはしない
彼はすでにそこにあったところのものを得るだけだ

by osho

↑に列挙してあることを一つひとつ見ていくと、私自身に関して言えば、何一つ失っていないことに気付かされますね。

ただし、小さくなったものはあります。不幸は小さいかもしれません。幸福でもなければ不幸でもないというのが一番妥当な表現です。

痛みは全く小さくなっていません。これが最も変化していないものだと思われます。苦悩はそれほど感じたことがないので、その大きさは小さいと思うのです。

次の不安ですが、これは自分で明示的にワークをやってきたおかげで、本当に小さくなりました。不安が来たらすぐにその不安をジッと見つめる練習をしたのです。

そうすると、不安は消えていくことを覚えました。次の野望については、この中では1番自分には似つかわしくないものだと感じています。野望とは縁遠い人生を送ってきたと思っているので。

嫉妬は人並みにはあるのですが、年齢を重ねてきて、嫉妬をするチャンス自体が減ってしまったのかもしれません。ただし、決して失ってはいないと分かります。

所有欲は人並みにはあったのですが、本質的に所有というものは存在しないということに気づいてからは、所有に興味が失せてきたのは事実ですね。

そして最後に暴力ですが、実際に暴力を使うことはほとんどないですが、その原動力である怒りは内在したままであることは知っています。

というわけで、みなさんはどうですか?どれだけのものを失ったのか自問自答してみるのもいいかもしれませんね。

論理的な理解と深い理解

きっと多くの人々が、自分のこの意識というものは脳によって生み出されているに違いないと思い込んでいるのです。

私自身も脳がどのようにしてこの摩訶不思議な意識なるものを作り出しているのだろうかということが、最大のナゾだと思っていたのです。

脳が大前提と思っている人にとっては、意識と思考の区別が曖昧になってしまうのです。それはある意味仕方のないことですね。

けれどもある時から、その考え方が根底から覆ってしまったおかげで、意識と思考の区別が明確になったのです。

というよりも、その両者を比べることがあまりにも馬鹿馬鹿しいくらいに、意識は特別だとはっきり分かったのです。

すべてのものに意識が宿る、これも的を射た感じがしません。そうではなくて、本当は意識以外は何もないということ。

そして意識という無から、あらゆるものが立ち上がってくるのです。それがすべての現象を形作っているのです。

思考は単にあらゆる現象の中の一つに過ぎません。物質やエネルギーと何ら違いはないのです。

こうした気づきがやってきてくれたおかげで、いろいろなことが自分の中でスッキリしたのは確かですね。

神だとか愛、あるいは死だとか、非二元といったことが自分の中でこれ以上ないくらいにシンプルになったからです。

論理的な理解は思考の域を脱することができないので、すべてが複雑化してしまいますが、深く理解することができると、物事は本当にシンプルになるのです。

あなたはどちらがお好みですか?

やり過ぎると報復に合う

左手の薬指の第二関節を曲げたり伸ばしたりすると、なんだか引っかかるようになって、おまけに薬指の付け根のあたりが痛むようになったので、仕方なく重い腰をあげて整形外科に行ってきました。

私から症状の説明を聞いた医者はすぐに、「ああこれバネ指ですね」。この言葉でもうすべての説明を終えたという雰囲気でした。

そのバネ指なるものを説明したパンフレットのようなものを渡されて、唖然としている私に向かって、「注射が一番効くけど、すごく痛いですよ」と脅してくる。

結局塗り薬を処方してもらって帰ってきたのですが、よくよく調べてみると薬指の腱鞘炎でした。指を曲げるときに機能する腱と、それを守る腱鞘とが擦れて、動きが悪くなったのです。

そのために指を伸ばそうとすると、バネのようにパコーンとなったわけです。腱鞘が炎症を起こしていたわけですが、要するに使いすぎということ。

ただ身体を使う仕事ではないので初めのうちは検討もつかなかったのですが、これはきっとマッサージのやり過ぎだと分かったのです。

昨年の2月くらいから母親の手のマッサージを始めた記憶があり、それがたたって炎症を起こしかけていたときに、苦手な雪かきを何度もやったおかげで急激に悪化したのでしょうね。

それは物理的な説明ですが、私の場合はきっと「もうやりたくない」という影の本音を無視しながら続けてしまったことが、敗因なのではないかと。

言葉の響きは悪いですが、そこそこ適当にやればよかったのに、やれる時は必ず時間を決めてやっていたので、それで嫌気がさしたのだと思うのです。

何事も過ぎたるは及ばざるが如し、ですね。しばらくは養生して、また回復したら今度はチョロチョロやるようにしようと思ったのでした。