静かに見守る者であれ

ただの観照者、静かに見守る者でありなさい。そうして見守ることは、あなたをとてつもなく助けるだろう。それは神秘の扉を開ける唯一の鍵だ。それが何かを解決するわけではない。しかし、あなたが神秘を生きる、しかもトータルに生きることを可能にしてくれる。

by osho

人生の中では、解決することがとても大切なことだと思われています。何か問題が起きたら、それをどう解決できるかが重要なことなのです。

問題を解決できない人は、人生の敗者になってしまうという感覚を誰もが持っているのですから、仕方ないですね。

そして問題を解決したその先にこそ、理想の人生が待っていてくれるというわけです。けれども、そんなことは決して起きないのです。

問題を解決すれば、すかさず次の問題が待ち構えていてすぐにでも現れようと手ぐすね引いて待っているのです。

そのおかげでマインドは戦いを辞めずに済むのですから。問題ー解決のループはマインドが戦いを継続する上では必須のことなのです。

このことに気づいた人は、問題がやってきたとしてもそれを解決することにエネルギーを使う代わりに、ただそれを見守るようになるのです。

マインドにしてみれば、見守っているだけでは自分を守ることができないと思うのですが、確かにはじめのうちはそうなるでしょうね。

けれども、それをただそのままにしておくことができると、いつかは問題は解決するためのものではなく、問題視するその見方こそが問題を作るのだと気づくのです。

問題視することからただ見守ることへと変化するなら、問題は消えてしまうのです。問題はなくなり、ただ観照だけが残るのですね。

マインドにとって戦いは必須

人類は過去何世紀ものあいだ
ふたつの時期しか生きたことがない
戦争、つまり実際の戦時と
戦争のための準備期間だ
このふたつがすべてなのだから
歴史自体、まったく神経症的としか言いようがない

by osho

人類から戦争がなくならない唯一の理由は、マインドが分裂しているからなのです。それもほぼすべての人のマインドがそうした状態なのです。

分裂を維持するためには、別れたそれぞれの部分が互いと戦い続ける必要があるのです。それが外側に投影されてしまうために、この世界から戦争がなくならないのです。

それなのに、私たちは戦争の原因を外側に求めてしまうのです。国同士の戦いは、いわゆる縄張り争いのようなものと見ることができます。

要するに、この土地は俺のものだ、いいやお前のものじゃないというようなことでの争いですね。

またエネルギーの争奪戦も戦争の原因と考えられています。無尽蔵に使えるエネルギーがあれば、世界は裕福になって余計な争いはなくなると想定されています。

宗教や文化の違いのようなものも、戦争の引き金になっていると考えられる場合もあるでしょうね。

けれども、こうしたことは表面的な戦争の理由付けでしかありません。本当の理由は、個人個人の内面であるマインドそのものが強く分裂しているからなのです。

どれほど平和な世界が仮にあったとしても、マインドがそれをそのままにしておくはずがないのです。

マインド自体の存続を願うために、どうしても争いが必要となるのです。戦争はマインドにとって、必須のものだということですね。

人生が戦いの連続みたいになっているなら、それも偶然ではなくその人のマインドが戦うことから足を洗いたくないだけなのです。

そのことに深く気づくことこそが、真に戦いから離れていくための最初の一歩だと思うのです。

戦いから解放されるマインド

戦っていないとき、あなたは生そのものとなる
戦っていないとき
あなたは広大なるもの、無限なるものになっている
あなたが戦っていないとき
東洋においてその状態は<明け渡し>として知られてきた

by osho

私たちのマインドは常に戦っています。一時的に戦いを中止している状態の時もないではないですが、それもつかの間、すぐに戦いに戻るのです。

戦うというときに、自分の外側の何かと戦っていると思いがちですが、実はマインドはそれ自身の一部と戦っているのです。

そのおかげでマインドは分裂し、存続していられるのです。マインドは戦うことをやめてしまえば、危機的状態に陥ってしまいます。

それが↑で言う<明け渡し>の状態ですが、それは結局マインドの終焉を意味するのです。覚醒とは、マインドが戦うことをやめてしまった状態のことなのです。

マインドは、幼い頃の惨めな自分とずっと戦っているのです。戦ってなきものにしようとするか、相手を忘れられるくらいに惨めではなくなろうとするのです。

けれどもその努力そのものが、惨めだという思い込みへの反発エネルギーを意味するので、努力という戦いが続く限りは、惨めな相手も健在なのです。

この戦いはいつまで続くのか?癒しを進めていくと、あるときに幼い頃の惨めな自分から逃げる、あるいは戦うことのバカバカしさに気づくのです。

そのとき、本人の自覚としては、自分に対する深く謝罪の気持ちがやって来る感じですね。心から謝るのですから、戦いはなくなっていくのです。

そうなると、強く分裂してきたそれぞれのマインドの部分同士の距離が縮んできて、マインドそのものが小さくなっていくのです。

そしてようやくマインドの中心が見えて来るのです。両極端から解放されて、穏やかなマインドが戻って来るというわけですね。

苦痛は気づきのチャンス

しばらく腰痛だったのですが、ようやく快復した感じがします。腰が痛いと本当に何もできず、何をするにも静かにソーっと体を動かす必要があるのです。

上半身を前傾した状態になるだけで、鈍い痛みがやってくるのが分かるので、それを常に気をつけているクセがついたようです。

それで分かったのですが、普段は自分の身体が今どういう状態にあるのかということに無頓着というか、無意識で生活しているということです。

腰痛のおかげで、身体をゆっくり動かすと同時に、絶えず腰の関節の曲がり具合に気づいている必要があったのですね。

これは意識的であることの練習にはもってこいだったのです。歩いているときに、右足と左足の動きに気づいている人は少ないでしょう。

ダンスの練習でもしているのなら別ですが、頭のてっぺんからつま先に至るまで、全身の動きと状態に絶えず気づいていようとすることは、とても難しいことですね。

結局人間て、苦痛があることでさまざまな気づきのチャンスをもらえるのです。苦しみや痛みは嫌いだしいやなものですが、それでも確実に気づくチャンスが一緒にやってくるのです。

そう理解するなら、苦痛もありがたいお友達として歓迎することも、少しはできるようになるかもしれませんね。

快楽を求めれば苦痛がついてくる

もし苦痛をこわがったら
あなたは催眠術にかかったまま
年を取り、老いて、死ぬだろう
あなたは大切な機会をのがしたのだ
だが、もし醒めたければ
そのとき、あなたは両方に醒めなければならない
苦痛と快楽
そのふたつは別々な現象じゃない

by osho

私たちにとって、苦痛と快楽はちょうど真反対のモノだと捉えられていますが、どちらか一方だけがあるということはないということです。

つまり苦痛があれば快楽があり、快楽があればその分だけ苦痛があるということ。そのどちらか一方だけがやってくるということはないのです。

それがこの宇宙の法則です。それはちょうどコインの表と裏の関係と同じなのです。コインを繰り返し投げたら、表が出る回数と裏がでる回数は等しくなるのです。

確率として表も裏も50%の割合でバランスが取れるようになるのです。学校で習った誰もが知っていることですね。

真実は、量子力学で明らかになっていますが、表と裏は50%の確率で同時に存在しているのです。

この現象世界では、どちらか一方だけが現象として現れるのですが、回数を無限に増やしていけば、つまり時間が無限に続くなら必ず表と裏のでる割合は等しくなるということ。

だから快楽を求めればそれだけ苦痛もやってくるということ。どちらも求めなければ、どちらでもないという状態になっていくのです。

そんなのつまらないと感じるのがエゴなのです。なぜなら、エゴにはどちらでもない至福を知ることができないからですね。

とてつもなくこの瞬間に在る

生におけるもっとも美しい瞬間、それは混乱も確かさもないときだ。人はただ、在る。鏡があるがままを映し出している。どんな方向性もなく、どこにも向かわず、何かをしようという考えもなく、未来もなく…ただ完全にこの瞬間に、とてつもなくこの瞬間に在る。

by osho

マインドにとっては、↑これが一番難しいことです。というより、そうしたくないというのが本音なのですね。

もしも内面が鏡のように澄んでいるなら、マインドは働くことができないのです。マインドとは、ピカピカの鏡を粉々に割ってできた思考の破片の塊なのですから。

方向性がなければ、息が詰まってしまう感じがするし、どこにも向かわなければ、生きている気がしないのです。

何かすべきことがなければ、マインドは飢え死にしそうになって苦しむことになるのです。

この瞬間の中へと入っていくとは、時間という流れのヒダの中へ深く深く入り込んで、時が消えていく地点まで向かうということ。

それはマインドがマインドとして機能している限りは不可能なことです。マインドの荒い波動が邪魔をして、永遠の静謐さを捉えることができないからです。

混乱はマインドの特徴ではあるのですが、確かさも実はマインドのものなのです。そのどちらでもないとき、初めて内側が鏡のようになるのですね。

「無」の存在を感じつつ…

私たちが知り得るあらゆるものは、すべてが一時的なものですね。つまり、私たちには、永遠ということが本当には分からないのです。

生まれてからこれまでに目にしたどんなものであれ、いずれは消えて無くなっていくものばかりなのです。

自分が生まれ育った家も、通っていた学校も、働いていた職場も、この街も、この地球もいつかは消えて、宇宙空間そのものもいずれは無に帰すのです。

常識的には空間が消えるということを理解するのはちょっと難しいかもしれませんが、それでもいつかはなくなるのです。

ところで、決してなくならないものが一つだけあるのです。それが「無」なのです。無とはあらゆる一時的な事柄を下支えしている何かのこと。

私たちのマインドが、この「無」を理解できないがために、常に在るこの無の存在に気づくことができないのです。

もしもマインドが一時的であれその活動を停止するなら、そのときには瞬時に「無」だけが在ることに気づくはずなのです。

それこそが真実である永遠ということです。それを意識と呼んでもいいし、真の自己と呼んでもいいのです。

なんてことをどこかで感じつつ、今日もまるで夢のようにはかない1日が過ぎ去って行くのですね。

ただプロセスが在るだけ

自分のプロセスを見守ってごらん。そうすれば、感じられるだろう。今日、お腹が空いたら、ただ見守ることだ。お腹を空かせた人がほんとうにいるのか、それとも空腹があるだけなのか?

by osho

幼い頃に、思考によって作り出しただけの自我(エゴ)が、どうやってこれほどまでに強大なものになってしまったのか?

それは、あらゆる体験に対して、自分がそれを体験したのだというように思考することで、記憶を全部改ざんしてきたからなのです。

本当は、ただそこに体験があっただけなのに、それを体験した自分がここにいるということを作り続けたのです。

だから体験の分だけエゴは大きく肥大したのです。したがってその大きさは、まさに張りぼてのようだと思えばいいのです。

お腹が空いたら、自分はお腹が空いたと思うのです。だから、お腹を空かせた自分がいるということが事実のように思えるのです。

けれども本当は空腹がただ在るということ。頭が痛いというとき、自分が頭痛を抱えていることにするのですが、実際は頭部に痛みがただあるということ。

この違いに気づくためには、いつも「○○という自分がいる」という間違いを見守っていることです。

このことに気づくと、エゴの果てしないでしゃばりに驚愕することになるでしょうね。そしてそれこそ物事を複雑にしてしまう根源なのです。

本当はとてもシンプルなのです。だって、ただ○○が在るだけなのですから。

複雑さは思考とエゴの好み

「Simple is best」という言葉がありますが、あなたの人生は単純でしょうか?それとも何かと複雑なことになったりしていないでしょうか?

もしもあなたが自分本位に生きていなければ、すべてが複雑なことになってしまっても不思議ではないのです。

家族との関係、職場での人間関係、複雑に入り組んだ人生だと感じるのなら、余計なことを考え、余計なことをたくさんやってきてしまった結果だと言えます。

自分本位に生きる人は、思考に巻き込まれることが少ないはずです。なぜなら、自分本位では自己防衛も小さいからです。

防衛するためには思考を沢山使うために、いつも何か考え事をし続けるようになるのです。そしてよかれと思ってすることが裏目に出たりして、事を複雑化してしまうのです。

この「良かれと思って…」というのは非常に危険な発想なので、要注意なのです。この発想のほとんどは、愛ではなく防衛からやってくることを覚えておくことです。

あなたは基本的には、あなた自身のことだけを考えておけばいいのです。もちろん幼子を育てるときなどの例外はありますが…。

目の前にいない人のことを考えなければ、物事はスムーズになってより単純化することになるはずです。

今一度これまでの自分の人生を振り返ってみて、シンプルではないと感じるのでしたら、生き方を見直す必要があるかもしれません。

複雑なことは思考とエゴが得意なだけで、人生を純粋に楽しむ方向ではないということも知っておくことですね。

あなたにはどんな役割もない

生はある特有な目的でつくられている
それが無目的であること
それが何か解決されるべきものではなくて
生きられるべき、楽しまれるべき何かであるという目的でだ
あなたはそれを祝うことならできる
それを踊ることならできる
それを歌うことならできる

by osho

自分は何のために生まれてきたのだろう?あるいは、どんな役割を持って生まれてきたのだろう?

こんなことは一度も考えたことがないという人はいないかもしれませんね。そのくらい、人は人生のどこかでそんなことを考えたりするものです。

けれども、生は無目的という目的で作られていると↑で言っているのです。目的など初めからなかったんだと思うと、気楽になれるか気が重くなるかのどちらかです。

気が重くなるという場合には、やるべきことがなくなってしまうという不安を抱くからなのです。

役割を担っていさえすれば、いつだってやるべきことがあるわけで、それなりに安定していられるからですね。

でもそんなことはまやかしなのです。私たち一人ひとりには、そもそもどんな役割も与えられてなどいません。

それを潔く認めてしまうことです。幼い時に、家族がバラバラになってはいけないとか、家族をかわいそうにしてはいけないとして、それをなんとか食い止める役割を自分に課してしまう子供もいるのです。

そうすると、暗い家族の中で元気に振る舞おうとしたり、家族が喧嘩しないように間を取り持とうとしたりして、自分本位には生きられなくなってしまうのです。

そうした無理の連続による自己犠牲のつけが未来にやってくるのです。つまり、そんな生き方は嫌だという真正直な思いが、本人の自覚とは裏腹に人生にブレーキをかけてくるようになるということ。

自分に何かの役割を課しているひとは、即刻その役割を放棄してしまってください。そうしなければ、周りもあなたも生を祝う気持ちを知ることはないでしょう。

エゴにとっては無目的は怖いかもしれませんが、そこから逃げずに淡々と生を生きることができるなら、やっと自ら作った重荷から解放されるのです。