飄々と生きる

自我がいなくなったときこそ

実際には、はじめてあなたがいるのだ

はじめて、あなたは限界のある存在でなくなる

あなたは無限だ

はじめて、あなたは肉体ではなくなる

形に現れたものではなくなる

あなたは具現せざるもの、広大なるものだ

始まりも、終わりもなく

ひろがり続けていく

by osho

このブログでお伝えしている核心の部分というのは、結局のところ ↑ ここで言われていることに尽きるのです。

けれども、これが真実だからこれを信じなければいけないというのではまったくありません。

だってあなたは具現せざるもの、広大なる無限のものだというのに、こんな言葉を信じるなんておかしなことになってしまいます。

真理を極めるということよりも、少しでも気を楽にもって生きることができるようにと、お伝え続けているのです。

始まりも、終わりもないあなたなら、初めからずっと救われているわけだし、救われるという概念すら該当しない広大無辺なもの。

今あなたの人生が思うようになっていなかったとしても、それはあなたの本質からしたら限りなく小さな夢物語に過ぎないということです。

そんなふうに見ることができたら、なんだっていい!という一種達観した心理状態にもなれるというもの。

こだわらず、戦わず、信念を持たずに、飄々と生きる。社会から逃げずにさりとて社会に染まらず、ただあなたでいればいいのですね。

真理には仕組みなどない

私は常々、人間のマインドの仕組みを深く理解することができれば、より気楽に生きることができるようになると言っています。

なぜなら、この社会を作っているのもマインドだし、戦争を継続しているのもマインドなので、そのメカニズムを理解できれば思い悩むことが減るからです。

不可解な人間の言動を見聞きしても驚かなくなるし、この世界に善人と悪人がいて、正義が必ずしも勝てないことも理解できるのです。

世の中に溢れかえる理不尽さを生み出しているのもマインドだと気づくことができれば、深刻になったりせずに済むのです。

その一方で、真理には仕組みやメカニズムというものすらないということにも気づいている必要があるのです。

物理学などで宇宙の仕組みはどうなっているのかということを探求するのですが、そのようなやり方で真理を極めることなど不可能なのです。

仕組みとは思考の範疇であり、真理はその外側に在るからですね。深く瞑想することで、マインドの仕組みも宇宙の仕組みもすべて消えていきます。

マインドの仕組みを深く理解し、それと同時に仕組みを超えた真理への感覚を持つようにできるといいですね。

安易に結論を出さない

いろいろな宗教の信者になる人の心理というのは、概ね共通しているのです。それは、安易に、手っ取り早く依存できるものを手に入れるということ。

誰かの言葉をそのままに信じてしまえば、こんな楽なことはないし、もうすぐにでも心が安らかになるのです。

ただし、そういった安らぎというのは非常に薄っぺらいものなので、それが崩壊するときもあっという間に不信へと変化してしまうのです。

いつも言っているように、信じることと信じないことは同じコインの裏表の関係であって、所詮は同じものなのです。

どちらでもないと言う状態、安易に信じたり信じなかったりするのではなく、興味があれば自分で検証することです。

自分にとってそれがいいものであるか悪いものであるかは、実践して見なければ本当のところは分からないのですから。

そして良い悪いの判断基準を正しいかそうでないかにせず、満たされるかどうかに重点を置くことです。これは非常に個人的なものだからです。

この基準を間違えなければ、早々に結論を出すなんてことはなくなるはずですね。そして他人と同じになる必要もないと分かるのです。

だから、信者の方々が他人を入信させようとすることほど、おせっかいで真の宗教を理解していないことを露呈することはありません。

欲望は惨めさからやってくる

ブッダ、達成した人が死ぬときは、どんな思考もなく、ただ死ぬ。彼はそのオーガズムを楽しむ。それはとてつもない充足、完全なる充足なので、彼には戻ってくる必要がない。ただ宇宙へと消え去る。彼にはもう一度身体をまとう必要はない。

by osho

逆に言えば、欲望が残っているままに死ねば、その欲望を達成しようとして戻ってくることになるということ。

今この地球にいるすべての人たちが、例外なくそうした欲望を携えて戻ってきたことになるのですね。

そう思うと、誰もがみんな自分のことで必死に生きているのです。その目的は、欲望をすべて達成するというもの。

ところが残念なことに、その生き方で充足してもう戻らなくなった人は一人もいないというわけです。

充足した人というのは、欲望を持っている自我が消えてしまった人だからです。欲望は充足してなくなるのではないのです。

気づくべきは、欲望とは充足することを許さないものだということ。欲望はいつまでも欲望として存続したいからです。

これが無限に繰り返される輪廻の理由です。そして欲望とはどこからやってくるのか、それは惨めさからの逃亡です。

惨めだと言う思いがそこから脱出しようとして欲望と化すのです。だから、惨めさの伝搬こそが輪廻だとも言えるのです。

さらに惨めさはどこから来るのかと言えば、勿論思考です。思考こそが惨めさを生み出す張本人。

覚醒した人は、思考(自我)が落ちてしまったので、惨めさが消えると同時に欲望も消えてしまったのです。

それは気持ちよく宇宙へと溶けていけるはずですね。

人生は夢物語

瞑想というのは、無心の状態

無思考の状態に達するためのものだ

無思考のその開口部において

そうした空間において

不意に、あなたは純粋に

無垢に、汚れなきものになる

by osho

↑上で心というのはマインドのことであり、無心とはノーマインドということです。つまり、瞑想とはノーマインドの状態のことを言うのです。

分かりきったことかもしれませんが、時々瞑想ってどうすればいいのですか?という質問を受けることがあるのです。

ノーマインド、つまりマインドの活動が停止してあたかもマインドが無くなってしまったような状態、それを瞑想というので、どうかすることではないのです。

けれども、その質問をしている張本人こそがマインドであるため、理解しづらいのは仕方ないことなのです。

一度瞑想のフレーバーを知ってしまったら、それを忘れることはできても、それがなくなることはありません。

そしていつどんなときであれ、あの「無」の感覚は蘇ってきてくれるようになるのです。

そのとき、あらゆる人生物語が消え失せていくのです。人生とは、マインドが思考によって繰り広げる夢物語なのです。

この現象界全体が夢だといっているのではありません。現象は実在するのですが、そこに意味や価値、悲喜こもごもがあるように感じることこそが、マインドの創作なのですね。

だから時々は、マインドを静かにさせて毎日絶え間なく続く人生物語から解放される体験をしてみるのは、いかがでしょうか?

無垢に、汚れなきものになる清々しさを感じるはずです。

自己否定するマインドを見る

幼い頃、自分の存在価値に気づかせてもらえない環境で育った場合、どうしてもその反対に自分を否定するマインドが育ってしまうのです。

不安や孤独が大きければ、惨めさが沢山やってくるなら、そういう苦しみの原因を自分へのダメ出しをしてなんとかしのごうとするのです。

そうやって自己否定をすることが日常的になり、ある種の習慣のようになってしまうと、そのことに気づくことがすごく難しくなるのです。

いつもお伝えしていることですが、自己否定する習慣をやめようとしても、それは簡単なことではありません。大抵は、やめられないのです。

大切なことは、自己否定が悪いことだという思い込みをまずなくすこと。その上で、自己否定するたびにそのことに気づいていられるようにするのです。

悪性の腫瘍が身体中に転移してしまうように、自己否定の習慣は日常のあらゆるところへと入り込んでしまうので、気づきにくいのです。

このことを忘れずに、できるだけ自己否定が来る瞬間を見つめるように練習することです。習慣をやめるためには、意識的になるしかないからです。

さらにいえば、自己否定せざるを得なくなった当時の事情を深く理解して、自己否定してしまう自分を責める必要がまったくないということにも気づくことです。

そうやって自己否定のマインドのパワーが自然と小さくなっていくのを発見することができるはずです。

エゴの愛と本当の愛

あなたは愛が何であるか知りやしない

あなたの知っているのは執着だけだ

しかも、そういう執着をあなたは執着だと思っていない

あなたはそれを愛だと思っている

もし執着が執着として認識されれば

それは落ちる

けっしてあなたがそれを落とすのではない

by osho

この世界には、大きく分けて二種類の愛があります。一つはわたしがエゴの愛と呼んでいるものであり、もう一つは本当の愛です。

そしてエゴの愛にはそれこそいろいろな形のものがあるのです。本当の愛に近いものから、執着そのものだと分かるようなものまで。

両者の違いは何かと言うと、本当の愛というのはエゴの不在の状態のことを言うのです。無私ということですね。

一方エゴの愛の方は、愛するあなたが中心にいるときのこと。私があなたを愛するのですから、いつも主語が必要なのです。

エゴの愛は、「愛する」という動詞として表現できますが、それはエゴの行動として捉えられるからです。

本当の愛はただ起きるのです。そこには誰もいないのですから、ただ起きるとしか言いようがないのです。

学生のころ、私は自分には愛がないな〜と思っていたのですが、今思えばそれは当然だったということです。

ここで言いたいことは、エゴの愛が悪いということではなく、両者の区別がしっかりできるかどうかが大切だということです。

自分が感じている愛がエゴの愛だと気づけば、気も楽になるというものです。誰かを欲したり、嫉妬したり執着することをそのままに受け止めれば、それを愛と勘違いしなければいいのです。

そのままを認めてあげられるなら、いずれエゴの愛はゴミ箱行きに勝手になるのですから。

生が無目的でよかった!

生はある特有な目的でつくられている

それが無目的であること

それが何か解決されるべきものではなくて

生きられるべき、楽しまれるべき何かであるという目的でだ

あなたはそれを祝うことならできる

それを踊ることならできる

それを歌うことならできる

by osho

↑生が無目的だというのを聞いて、正直どう感じるでしょうか?生きていて何の目的もないなんてつまらないし、退屈で死んでしまうと感じるかもしれません。

それは確かにそうなのです。誰もがマインドの言いなりに生きていればそうなって当然なのです。

マインド(エゴ)にとって、目的は生きる支えのようなものだからです。マインドという思考群は、未来というものを考案して動くスペースを確保するのです。

その時に絶対的に必要となるのが目的というわけです。だから、誰にとっても例外なく目的を持って生きるのは当然なのですね。

けれども、真実に目を向けてみれば分かるのですが、私たちの本質はエゴではありません。思考は単なる自然現象の一部であるに過ぎないのです。

思考から離れてみれば、そこにはどんな目的も存在することができなくなり、未来や過去に揺れ動くどんなスペースもなくなります。

その時に初めて、今この瞬間だけが生きられるすべてだと気づくことになるのです。そうなったらそれをただ楽しむだけでいいと分かるのです。

どんな意味も、いかなる価値も、これまで気にしてきたあらゆることが吹っ飛んでしまい、残るのは本当に祝う、踊る、歌う、笑うになるのでしょうね。

決してマインドを強いない

癒しを進めていくと、いろいろなことが起きたりしますね。急に心が軽くなって、ああ癒しの効果が出てきたんだと嬉しくなったり。

そうかと思えば、逆にどんよりと落ちたような状態になって、まったく癒しなんて進んでないと感じてみたり。

こうした心の上下動というのは、大抵が一時的なものであり、そうしたものに一喜一憂する必要はないということです。

本当の変化というか、しみじみとした変化というのは年単位で、あるいは5年10年という単位で捉えるべきなのです。

幼い頃から膨大な時間をかけて培ってきたものが、ゆっくりはずれてくることこそが癒しだと気づけば、急激に変化するはずがないからです。

そして何よりも、自分を変えたい、あるいは自分を良くしていきたいとして、自分を強いれば強いるほど、逆の抵抗も強くなるのです。

そこで均衡を保つことになるので、癒しは進みません。何ともじれったい話しだと感じるかもしれませんが、事実です。

そのじれったさの中で、待つのです。マインドのあらゆる側面を見つめ続けるのです。強いないでいられるなら、マインドは力を失って小さくなっていくのですから。

自分本位が自由を作る

私はあなた方に全面的に自分本位であってほしい

なぜならば、そうしてはじめて

人の役に立つ可能性も出てくるからだ

あなたが深いところまで自分中心にならない限り

実存において自分本位なあまり

ハッピーで、祝っているようでない限り

それを分かち合うことなどできない

by osho

↑この「自分本位」に生きるというのは、私がこの仕事を始めたときからずっとクライアントさんに言ってきたことです。

というのも、セラピストになって自分以外の誰かの生き方をつぶさに見る事ができるようになって、驚いたのです。

それはあまりにも他人のことを優先して生きてる人が沢山いることに気づいたからです。

人間というのは、いつでも自分が基準なのですね。だから私自身の生き方と比べて、非常に気になったということです。

だから他のセラピストよりも、より自分本位に生きる必要性を訴え続けてきたのだろうと思うのです。

osho も言っているように、何であれ自己犠牲を自分に強いてしまうと、同じことを他人にも強いる傾向が出てくるのです。

その逆にしっかり自分本位でいられるなら、自己犠牲がなくなり、他人に対しても自己犠牲を強いない生き方に自然となるのです。

自分本位な生き方を誰もが実践するようになったら、この世界は間違いなくもっと自由なものになるはずですね。