意識が目覚めるために思考を利用した

あなたが<家>のあるじなのだ!

その<家>はあなたのものなのだ!

それなのに、お客(=思考)が主人になってしまった

彼らを受け容れ、面倒を見るのはいい

でも彼らといっしょくたになってしまっては駄目だ

さもなければ、彼らのほうが主人になってしまうだろう

by osho

何年も前に初めてこれを読んだ時には、何だか不思議な感じがしたのを覚えています。言わんとすることが、スーッとは入ってこないというのか。

ところが今では、ごく当たり前のことだというのが分かります。この自分の本性が思考ではないということを深く理解したからなのでしょう。

思考には実体がありませんが、実体があると思い込むことはできるのです。つまり思い込むことには制限がないのですから、思考の中では無敵です。

思考は動物にもちゃんとありますが、私たち人間のマインドのような複雑なものではありません。

これは私の勝手な考えなのですが、もしも思考というお客がやって来なければ、いつまでたっても私たちの実体である意識は、眠ったままだったろうと思うのです。

意識が目覚めるために思考を利用したのです。意識は動物の中では未だに目覚めることなく眠ったままです。

人間の脳の発達に伴って、複雑な思考を取り込むことができるようになったおかげで、一人称の自分という思考を作り出すことに成功したのです。

この時、少しばかりの意識が目覚めかけたのですね。それが私たち人間が置かれている状況なのです。

気づきはやってくるもの

<自然であること>には

何か賢いことと何か愚かしいことがある

自然である人間は

賢いのであって善なのではない

自然でない人間というのは愚かしい

悪いわけじゃない

世の中に悪いことなど何もないし

善いことなど何もない

ただあるのは

賢いことと愚かしいことだけだ

by osho

善も悪もありません。何かに執着することがバカバカしいことだと分かっていても、それを手放すことができないのは善悪ではないのです。

夢の中で溺れそうになって何かに必死にしがみついているのに、手を離しても大丈夫だからと言われても通じないのです。

本人が夢だと気づけば、そのしがみつきがバカバカしいことだったと分かるので、勝手に手を離すことになるわけです。

だから大切なことは、気づくこと。勇気を持って対処することでも、努力して自分を変えようとすることでもないのです。

ただ愚かしいことだと府に落ちれば、執着は自然と消えていってしまうのです。だから賢さとは気づくことなのです。

気づかないことこそが愚かしいこと。そこに良いも悪いもありません。癒していくということは、気づきを繰り返していくことなのです。

じんせいものがたりは、マインドという思考群が生み出したものだと気づくこと。生は対処すべきものではないと気づくこと。

生はただあるようにあるのであり、戦う必要など毛頭ないということに気づいていくことです。

自然であれば、おのずと気づきはやってきてくれるのです。

どんな自分であれ意識を向けること

あなた方に言っておこう–

もし怒りを感じたら怒るがいい

ただし完璧な覚醒は維持されなくてはならない

怒りがあなたの意識を圧倒するべきじゃない

それだけのことだ

怒りをそこにあらしめなさい

それを起こらしめるのだ

ただし

何が起こっているのか完璧に醒めながら–

by osho

ところが私たちは怒ってはいけないと思ってしまったり、怒ることは嫌な気持ちになるし、後で罪悪感がくるから怒りは抑えるべきと思うのです。

この考えを全面的に変えていく必要があるということです。怒りを感じたなら怒ればいいのです。ただし、意識的にという条件つきで。

激しい嫉妬がきたら、嫉妬する自分なんて惨めすぎるからそれをなかったことにしたいと思うかもしれません。

けれどもそうではなく、嫉妬がやってきたらそれをそのままにさせておくのです。ただし、意識的にということ。

どんな自分であれ、それを避けようとしたり我慢したり、なかったことにしたりということをすべてやめること。

そのままでは惨めすぎて耐えられないなら、耐える必要はなくその惨めさと一緒にいることを意識的にやってあげること。

このような生き方を繰り返し練習し、実践することです。結果として、ひとりでに心の癒しが進み、人生はシンプルなものへと変化していくでしょうね。

何を基準に生きるか?

人は判断基準というものをいろいろ持ち合わせていますね。たとえば、好きか嫌いかとか、美しいか醜いかとか。

それらを判断して選択する時に、優先的に選ぶ基準というものがあるのです。たとえば、好きか嫌いかと同時に有利か不利かといったことです。

楽しいかつまらないかの基準がいつも優先されるなら、人生は非常にシンプルなものになるはずです。

けれども、同時に都合が良いか悪いかという基準もあって、楽しいけれど都合悪く、つまらないけれど都合が良いという場合だってあるのです。

より具体的な事例でみてみると、職場の人間関係が辛いので仕事を辞めたいけれど、収入がなくなるのが怖くて辞められない。

この場合は、快適か不快かという基準よりも、安心か不安かの基準を優先することで、辛い不快な毎日が続くことになるわけです。

以下にあげるような基準を優先すると、人生は複雑になるばかりか生きづらい不自由な毎日になることを覚えておくことです。

ー 善か悪か

ー 正か不正か

ー 安心か不安か

ー 価値があるか価値がないか

ー 意味があるか意味がないか

一方で、以下を優先するなら人生はよりシンプルになり自由を享受できるようになるのです。

ー 快適か不快か

ー したいかしたくないか

ー 楽しいかつまらないか

生きる判断基準として上記のようなものを優先できるなら、これまで生きづらいと感じていた人生がすっかり自由なものになってしまうはずです。ぜひ試してみて下さい。

知識は無知を永続させる

借り物の知識を避けること

借り物の知識というのは心のトリックになる

それは無知を覆い隠すのだ

それは決して無知を打ち壊しはしない

そして知識に取り囲まれれば取り囲まれるほど

内面深い中心において

まさにあなたの実存の根において

無知と暗闇が存在する

by osho

たとえ↑このことが頭で理解できたとしても、人はどこまでも知識を追い求めようとしてしまうのです。

なぜなら、そうやって自分の無知を解決できると信じているし、その方法が1番手っ取り早い自己防衛になるからです。

思考によって得られた知識は、本当のところ実害があります。自分の生(なま)の感情や感性といったハートの感覚を麻痺(あるいは抑圧)させる効果があるからです。

あなたのハートは、内面深い中心と繋がっている大切な実存の根なのに、それを地下室へと追いやることになるのです。

知識で無知を覆い隠すことはできても、知を知ることはできません。溺れそうになっている時に、どれほど手足をバタバタさせても効果がないのと同じです。

何もせずに静かになれば、体は浮き上がってくるというのに。すべてをあるがままにさせておく、すべてを放っておく生き方を覚えられるといいのですが。

過酷な人生に出口はあるか?

人生が八方塞がりだと感じている人が時々いますね。どうして私の人生はこうも過酷なものになってしまうのだろうと。

多少の波はあるものの、いつもこの出口のない閉塞感の中に戻されてしまうと思って、辟易しているのです。

ご本人としては、これだけ頑張っているのにどうやっても解決策が見つからないと感じているのですが、本当はすぐ近くに出口はあります。

今日にもそこから撤退して清々しい自由な人生へと転換することは可能なのです。ではどうしてその方法が見つからないのか?

それはそうなってはならないと頑張っているマインドの部分が強烈にあるからです。それ以外には考えられません。

そのマインドは小さい頃に作られた部分なのですが、それに飲み込まれてしまうと八方塞がりで、頑張った末に疲れ果ててしまうということを繰り返すことになるのです。

まずはこのカラクリにしっかりと眼を向けることです。そしてそのことに気づいていられるならば、おのずとそこから出ることになるはずです。

具体的には、次のような言葉を毎日心を込めて繰り返すといいと思います。

「私には過酷な人生がどうしても必要だ!」

「うまくいく人生が怖くて仕方ない!」

このほかにも自分なりに思いつく言葉を見つけてみてもいいですね。そして、この言葉があまりにもバカバカしいと感じるようになったら、過酷さは消えてしまうはずです。

絶望は気づきの大チャンス

人生において本質的にすべきことなど何もない、ということに気づいてしまった人は、一体どうなるのでしょうか?

それは勿論絶望することになるはずです。なぜなら、私たちの人生というのは未来に向けての希望や期待で成り立っているからです。

その希望が途絶えてしまうのですから、それを絶望と呼ぶわけです。絶望はエゴにとって、文字通り絶望的な状況なのです。

食いぶちを取り上げられてしまったような、何を頼りに今日を生きていけばいいのかが分からなくなってしまうからです。

けれども、長い目で見れば、そしてエゴの視点から少し離れた場所からその状況を眺めてみると、気づくことがあるのです。

絶望はエゴにとっては辛いことですが、本当の自分、だれでもない自己からすればこれほど清々しいことはありません。

何かしなければいけないという脅迫的な催眠術から眼を覚ますチャンスだということにも気づくことになるのです。

とはいうものの、これまで生きてきた希望オリエンテッドな生き方がそう簡単に降参することはないのです。

しばらくすれば、知らず知らずのうちにまたゾロ別の希望をでっちあげて、それに向かって生きる人生が開始されるのです。

その繰り返しを絶望と共に見続けてあげることです。絶望はこれ以上ない気づきのチャンスなのですから。

全体によってなされること

最初の呼吸は全体によってなされる

そして、もし最初の呼吸が全体によってなされるのだとしたら

ほかのあらゆることも

あなたの行為ではあり得ない

もし自分で息をしていると思ったら

道を踏みはずしているのだ

そしてこの誤ったステップのために

自我が生まれる

自我とは蓄積した無知のことだ

by osho

↑確かに最初の呼吸は全体によってなされるのです。なぜなら、そのときには決して自我もマインドもない状態だったからです。

それなのに一体全体どこから自我が発生するのか?全体とは存在を異にする自分という自我が本当にいるのでしょうか?

いやいや全体とは全体のことであって、そこから逸脱することはできません。ということは、自我の仕組み自体も全体によってなされているということ。

ただ単にその思考によって、自分は全体とは分離した独自の存在だと思い込んでいるだけなのですね。

人類が独りよがりを続けていき、この地球の環境を破壊するようなことになったとしても、それも全体によってなされているわけです。

だから何一つ間違ったことはないし、自分の意思で呼吸をすることができると思い込むことでさえ、全体によってなされていることの一部なのです。

思考は全体の一部であるし、人工的なあらゆることも全体によってなされていることだと分かれば、すべてがOKになるのですね。

全体と個人の分離感

明け渡しなさい

やわらかく、感じやすくなるのだ

そして、それがどこへ行くにしろ

生の流れに自分をゆだねるがいい

<全体>の目的地を自分の目的地にするのだ

自分だけの目標など追わないこと

あなたはただの部分になるだけでいい

すると、限りない美と恩寵が起こる

by osho

自分がこの広大無辺の宇宙の一部であるということは、頭では分かっているのですが、それとは相反する感覚を持っているのも事実です。

自分は固有の存在であって、この宇宙の中で特別な位置を占めていると感じているのです。

このような間違った感覚がどこからくるのかを考えてみると、1番最初に思いつくのは自分には自由意志があるというものです。

宇宙には自由意志などないけれど、自分には固有の意思があると感じているのです。それが自分の存在は特別だと思わせるのですね。

理性というのは思考が作るものですが、それなら上で述べた感覚というのはどこからくるのでしょうか?

実はそれも思考から来るのです。思考が全体と自分の分離を作り出したのです。その分離感こそが、個人であるという感覚を生み出したのです。

すでにある感覚をどうこうしようとしても仕方ありません。自由意志があるという感覚も動かしがたいなら、それをそのままにしておくのです。

それとは別に、全体性の感覚というのも持ち合わせているということに気づけばいいのです。

そしてどちらを優先するのかは、あなたが意識的になるかどうかにかかっているということですね。

自分を見ることは、いつでも役に立つ

先日、胃カメラの検査を受けてきました。人生で2度目なのですが、1度目の印象が悪すぎて、これまで具合が悪くても検査を遠ざけてきたのです。

1度目からかれこれ30年近く経っていると思うのですが、あの時は安心できる大きな大学病院で受けたのですが、それが返って悪い方に出たのです。

同じ日に検査を受ける人が沢山過ぎて、運悪く私の番が回ってくる頃には、時間が経ち過ぎていて喉の麻酔がほとんどきれてしまっていたのです。

それを知っているくせに、検査する人は自分の昼休みの時間がなくなるのを嫌がってか、大丈夫だからの一言で検査を強行したのです。

結局私は、検査の間中ずっとオエオエしながら、大量の唾液と涙まみれの状態で耐えたのでした。

ところが医学の進歩は素晴らしいですね。鼻から管を通すことで、喉の不快さは一切感じずに、少しばかりの違和感のうちに検査は終わりました。

ただし、弱虫のハートを持っているために、どうしても肩に力が入ってしまうのですね。

ただそこは日頃から自分を見る習慣があったために、力が入るたびに意識的に脱力するようにできたのはよかったです。

自分を見ることは、こんなところでもそれなりに役立つということですね。