幸福も不幸もどちらも自我のもの。至福は自我には分からない。自我が静止しているときにやってくるものだからです。
幸不幸は、必ずそうなる理由があるものです。私は、今◯◯だから幸せだとか、◯◯なので不幸に違いないという感じで。
ところが至福に関してはどんな理由もないのです。至福というのは、理由もなく内側が満ち足りている状態を指します。
物語としての理由はないのですが、物語の外には至福がやってくるための条件というのはあるのです。
それは、今ここ、この瞬間瞬間にあるということです。期待がないということ。期待がないということは、未来へ向かう空間がないということです。
だから結局のところ、期待がない状態であるなら自然と至福がやってきてくれることになるということです。
これは非常にシンプルな道理ですが、それが自我にはできないのです。自我は過去と未来への空間が必要だからです。
その双方への広がりがないと、閉塞感に包まれて窒息してしまいそうになるのです。それが自我の本性です。
自我との距離を感じられるようになれば、過去へもそして未来へも行かずに今この瞬間にいて悠々としていられるはず。
期待がなくなると、それと共にこうあるべきというルールや正しさも消えていってくれます。これが生きる極意かもしれないですね。