他人のエネルギーに当てられると…

今からもう20年くらい前のことですが、かなりセッションが立て込んでいた時期があったのです。

今ではもう考えられないことですが。そして、これも今では想像もできないのですが、あの頃はヒーリングのリクエストが多数ありました。

ひどい時になると、1日に4回もヒーリングセッションをやったこともあって、自分で言うのも何ですが、ヒーリングが大流行り。

そんなことが1〜2ヶ月も続いてしまうと、クライアントさんから出てきた様々なエネルギーを受けてしまうのです。

受けてもそれを流してしまえれば、全く問題はないのですが、あまりにも立て続けにやると、少しずつ溜まっていくエネルギーがそのうち私の体内に残存するようになるのです。

そうなると、お風呂に入っても長い時間の睡眠でも取れなくなってしまうのです。その結果、どういう感覚になるのか。

例えば、セッションルームから自宅まで自転車で帰る時に、空気の粘着性を感じるようになって、思うように進まない気がするのです。

身体は常に重いし、だるいし、やはり食欲も停滞気味になるのです。この二日間というもの、実はそれに似た感覚がやってきています。

もしかすると、アメリカ連邦税務局への電話でただ疲労しただけでなく、そこから大量のエネルギーが来てるのかもと。

世界中の人がその電話を通して、あらゆる苦悩のエネルギーを発信していて、それがこちらにも伝わってきてしまったのかもと。

いずれにしても、ただの勘ぐりでしかないし、自分の具合の悪さを誰かのせいにするのは好ましくはないので、このくらいにしておきますが。

でもこの身体の感覚は、あのときのアレに似てるんですよね。

ーーーーーーーーーーーー

こちらの動画もぜひご視聴ください。

時間の進む方向は? その2

昨日のブログでは、時間の進む方向が逆かもしれないというお話しをしました。人から聞いた内容なので、イマイチ自信満々では言えないのです。

けれども、例えば季節の変化を思い浮かべれば、当然なのですが未来から夏がやってくると同時に、春が過去へと去っていく。

次に秋が未来からやってくると同時に、夏が過去へと過ぎ去っていくわけです。だから、季節は未来から過去へと流れているのです。

これは直感的に理解できますね。同じように、あらゆる事象が未来からやってきて、現在の自分がそれを体験する。

そして、体験した直後にその事象は過去へと去っていくのです。つまり、流れているのが事象だとすれば、未来から過去へと流れると分かります。

自分がいる場所は常に現在だという事実と照らし合わせると、自分が過去から未来に流れる時間の中を移動するという概念が間違いだと気づくかなと。

私たちは1ミリたりとも時間の中を移動などしてはいないのです。私たちがいる場所である現在とは時間ではないのです。

そこに未来が流れ込んで、過去へと過ぎ去っていくというのが本来の姿なのではないかと思えるようになりましたね。

そう考えてみると、今までよりも一層のこと過去への興味が失せてしまう感じがしますが、皆さんはどうですか?

ーーーーーーーーーーーー

こちらの動画もぜひご視聴ください。

時間の進む方向は?

聞いた話しではあるのですが、人は小さい時、2〜4歳くらいまでは過去の話しはあまりしないそうですね。

現在と未来の話しが中心となっているらしいです。ところが、不思議なことに成長するにつれて、逆に過去の話しの方が多くなるのだとか。

確かに、大人になると過去よりも未来が大事と分かっていても、過去の思い出話しが好きという感じになるのです。

ところで、一体いつ頃に、そうした変化がやってくるのかというと、かなり明確に分かっているのだとか。

それは、小学一年生だそうです。つまり、それよりも前は未来と現在、それよりも後になると現在と過去に重きを置くようになるのだそう。

その理由がとても興味深いのです。それは、小学1年になって初めて時計の見方を習うことになるのです。

それが原因らしいです。あの時計を見て時間が分かるようになると、針があたかも過去から現在、現在から未来へ向かって進んでいるように感じるのです。

ところが、日本に古くからある時計は違うらしいです。針の方は固定していて、周囲の文字盤が半時計方向に周るのだと。

そうすると、未来から現在へ、現在から過去へと向かって進んでいるように見えるのです。この違いが面白い。

要するに、昔の日本人は今の時計を読めない幼子と同じように、時間は未来から過去へと進むと感じていたのです。

西洋から入ってきた時計によって、私たち日本人は時間の進む方向を間違えるようになってしまったということですかね。

ーーーーーーーーーーーー

こちらの動画もぜひご視聴ください。

どれだけ思索しても真実には届かない

左脳が優位になったおかげで、私たちは高尚な哲学や難しい考えなどを崇拝するようになったのですね。

だからoshoの次の言葉は胸に痛く突き刺さります。

『哲学とは正確には何か?それはまったく何も知らないのに、知っているふりをすることだ。それは思索だ。思索とはつねに、人が無知であるのに、何かをでっちあげようとしているという意味だ。いつであれあなたが考えるとき、それはたんに、あなたが知らないことを示している。』

確かに本当に知っていることというのは、思考とは全く次元の異なるところにあるのは分かる気がします。

思考の中でも思索というのは、いかにも思慮深い感じがしていいのですが、それでも思考を回転させていることには違いありません。

本当に知っていることを考えることってできないのですね。なぜなら、もうそれ自体だからです。

思考というのは周辺情報をああでもない、こうでもないと言って繰り返し増やしていっているだけです。

周辺情報をいくら増やしたところで、それ自体を知ることにはならないということは、以前このブログでも書きました。

ここが一番肝心なところだと思います。24時間思索に耽るのなら、5分の瞑想の方が圧倒的に真実に近づくと思いませんか?

ーーーーーーーーーーーー

こちらの動画もぜひご視聴ください。

二つの同一化はどうやったらはずれる?

生まれた時からずっとこの身体と共に暮らしてきたので、この身体も自分の一部だと信じて疑わないマインドが出来上がっているのです。

だからこそ、身体の死を自分自身の死だと認識することになるのですね。身体の老化や病気なども自分自身に起きると考えるわけです。

これって、至極当たり前のことですよね。人生のどこかのタイミングで、自分は身体ではないと理解したとしても、自分と身体の同一視はそう簡単には消えないのです。

だからこそ、自分の本質は意識なんだといくら理解したとしても、やはり死ぬのが怖いままで生きて行くことになるのです。

この強烈な身体との同一化は、一体どうやったらなくすことができるのでしょうか?頭での理解だけでは、どうも無理のように感じます。

百歩譲って、身体との同一化が取れたとしても、今度はマインドとの同一化が残ってしまうのですから、困ったものです。

自我そのものはマインドの中にあるのだとしたら、この同一化をはずすのは並大抵のことではない気がします。

そこはひとっ飛びに、自分とは純粋な意識なのだというところへと行ってしまいたいところですが、これも難しそうです。

もしかして、肉体の死後もこの世界に強く執着していると、マインドとの同一化がそのまま残って、地球と霊界の間の幽界というところに止まってしまうのかもしれません。

自分は意識だとして、できる限り見る側でいるように練習するしかないのかもないですね。こりゃ大変だ。

脳と身体の記憶は再利用可能

私が勝手に作り出した筋トレの法則というものがあります。と言っても、そんなに大それたものではないのですが。

それは、初めて筋トレをしてある状態まで到達したとして、そこから筋トレをやめて振り出しに戻ったとします。

そしてまたしばらくして筋トレを新たに始めた場合、前回と同じ状態に再度到達するまでにかかる時間は、相当に短くなるということ。

つまりは、何らかの方法で身体が初めてではないことを知っていて、次はもっと素早く筋肉を鍛えることができるのです。

記憶というのは脳に対しては言えるのですが、身体や筋肉に対しても言えると思わされること。

身体が一度目の筋トレによる筋肉の変化をまるで覚えてでもいるようで、その記憶を使ってより効率的に鍛えることができると。

ここまで書いていて気づかされたのですが、これってきっと自転車に乗れるようになった人は、乗れなくはならないのと同じかも。

あれって身体と脳が連動して、乗り方を記憶しているからなのでしょう。それと同じで、筋トレの効率的な身体の使いかたを脳が記憶しているのかも。

だから生まれて初めて筋トレをするときの無駄な動きをせずに、最初から効率的に身体を鍛えることができるのかなと。

こうしたことに気づいていると、何らかの理由で積み重ねてきたことを中止したとしても、諦めずにまたいつでも再開すればいい。

脳と身体は初心者ではないからですね。筋トレに限らず、あらゆることに当てはまるのではないかと思います。

ーーーーーーーーーーーー

こちらの動画もぜひご視聴ください。

降って湧いたような重責

たった2日前のことですが、夕方帰宅すると何やら不気味な英語の封筒がテーブルの上に届いていました。

中身を確認すると、訳の分からない内容のレターだったので、アメリカの税理士さん宛に転送してすべて処理してくれるだろうとたかを括って寝たのです。

ところが、明け方その税理士さんからのメールをみて、真っ青になって起きてしまいました。簡単に言うと、ご自身で対応してくださいと。

何で?と思っていたら、どうもアメリカの税務局が私の本人確認をしたいということで、代理が効かないのだと。

英語が苦手なのと、税務関係のことが皆目わからない二重苦の私に課せられた、思いもよらない重責なのです。

中身を窺い知ることのできない税務関係の書類を何とか送ってもらい、少しずつアメリカ税務局に電話をかける準備が。

しかしちょうど週末になってしまったので、決戦は来週に持ち越されたのです。この宙ぶらりんな心の状態で瞑想をしたら。

とても不思議な感じになったのです。瞑想は全く無理だろうと思っていたのですが、身体とマインドはある程度深く入り込んだのです。

ところが、気分だけが気持ちよくなれないという離れ業が起きました。ああこれは、左脳が本当には停止していないことが証明されてしまったなと。

気分は全く優れない状態のままではあるのですが、いつもの「これもまた過ぎ去るだろう」をやって、何とか凌いでいます。

ーーーーーーーーーーー

こちらの動画もぜひご視聴ください。

欲望を満たすことはできない

次のoshoの言葉は、自我としては耳が痛い感じがします。

『望みを失わないように生きる者は、欲にしがみついて生きる者は、常に苦悩ずくめになる。欲が大きいほど苦悩も大きい。

この世で満たされる欲望は一つもない。欲望は単純に満たすことができない。欲望は元々、満たされるようにはなっていない。欲望を満たすことはできない。』

そうなんですね、欲望は満たすことができない。そうはっきりと言われてしまうと、なるほどと思い当たることがあるのです。

けれども、それじゃあ元も子もないということで、そこを見ないようにして生きているということですね。

確かに、欲深い人が幸せになるというイメージは全くありませんし、満たすことのできない欲望をたくさん持つことほど辛いことはありません。

常に欲求不満を抱えて生きているからです。望みや欲望がなくなってしまったら、自我は死ぬと感じているのです。

実際、本当に欲望がなければ自我はもたないはずです。なぜなら、自我には未来に何かを期待できる状態が必要だから。

こうしたことは、一人静かに内側に入っていくと何となく分かるものです。そして、真に満たされる時には、理由がないのです。

欲望は満たすためにあるのではなく、自我の存続のためだけにあるのです。欲望が満たされることがないからこそ、自我はずっと生き続けていられるわけですね。

ーーーーーーーーーーーー

こちらの動画もぜひご視聴ください。

瞑想中に愛が発動する

昨夜の瞑想中に面白いことを経験しました。瞑想ですから、当然のこと極力他人のことなどは頭に浮かんで来ないようにしています。

自分の内側に意識を集中しているので、普段の左脳の働きが緩慢になるわけで、他人のことなど思い出すなど論外です。

ところが、ふとある人々のことが浮かんできて、それをそのままにさせていたのですが、いつもと違う感覚になったのです。

それは、あの人はあまり得意じゃないなとか、あまり気が合わないなと思っている人のことが愛おしく感じられたのです。

あれ、これ面白いなと思ってまた異なる人たちのことも思い出してみたところ、やっぱり苦手な人でも誰であれ愛おしい感じがするのです。

左脳の働きが緩むと、防衛も小さくなるために隠されていた愛の部分が発揮させられることになるのでしょうか。

原理的にはそんなような説明をすることができますが、実際に体験してみると不思議でしかないのです。

ただし、その最中でさえ、瞑想から抜けたらまたすぐに元の状態に戻ってしまうのだろうこともわかったのです。

いい気分でいるための極意としても、やはり左脳から距離を置くということになるのかなと。それにしても、右脳はいつも陽気で明るいだけなんですかね。

ーーーーーーーーーーーー

こちらの動画もぜひご視聴ください。

「飽きる」のと「選り好み」がなくなればいい

どれほど気に入った曲であっても、何度も何度も繰り返し聴き続けたら、やっぱり次第に飽きてきますよね。

それは自我として生きてる私たち人間としては、仕方のないことだろうなと。だからこそ、次々と新しい曲を求めて沼にハマることになるわけです。

だとすると…、ちょっとマズいことに気づいてしまいました。昨日のブログで、自分好みの楽曲を創作したいということを書きました。

気に入った曲を探すのも大変だし、時間をかけた割にはそれほどドンピシャで気にいることも少ないからです。

自分で創るなら、文句のつけようもないくらいに自分好みの曲ができるはずだからですね。ところがです。

相当にこんを詰めて創作していくことになるので、ようやく完成した時には、すでに千回以上は聴くことになるでしょう。

だとしたら、完成とともにもう飽きてしまってはいないだろうか?という疑問が沸いてしまったのです。

自我の特徴とも言える、「飽きる」のと「選り好み」のどちらか一つでもなくなってくれたら、全て解決してしまうんですけどね。

ーーーーーーーーーーーー

こちらの動画も是非ご視聴ください。