癒しに執着しないこと

心の癒しというのは、その人に特有の生きづらさなどの原因を探り、その部分の傷を修復することで人生をもっと生きやすいものへと変えていくのが目的です。

つまり、この場合の癒しというのは「自我の癒し」なのです。あくまでも自我ありきなのです。なので人類に普遍的な苦しみからの解放を目的としてはいないのです。

ということは、本来私たちが共通に抱えている苦しみからの解放を目指すのであれば、自我の虚構を暴いていく必要があるのです。

ではなぜ初めからそのような虚構を暴く作業をしないのかというと、そうした作業を病んだ自我の心が邪魔をする可能性が高いからです。

だからまず初めに癒しを進めていき、自我の抵抗を小さくしつつ本来の我々の目標である気づきの方向へと進めていくことが大切なのです。

けれども、もしも癒しの段階で思うように癒しを進めていくことができずにいて、そうした自分を責め続けてしまうのであれば、それは悪循環になってしまいます。

万人に共通する理想の手順などというものはありません。個人個人の特性に合わせて、臨機応変に進めていければ一番いいのです。

癒しのことを一旦忘れて、瞑想をするでもいいし、非二元の探究をするでもいいのです。決まった正解というものはないのですね。

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価値判断がなくなると

私たち人間というのは、とにかくもっと手に入れたいと思っているものですね。それがモノであれ、なんであれ。

自分にとって価値があると感じているものは、もっと欲しいと思うし、手に入れたらそれをずっと保持し続けたいと願ってる。

ところが、ブッダのような人はまるでその逆をやったわけで、つまりはとにかく捨てるということを続けていったのですね。

捨てて捨てて何も残らなくなったときに、自我そのものも落ちていってしまったのでしょうね。それはすごいことです。

けれども、捨て続けることがすごいのではなくて、実際には我々が価値があると思っているものに対して、その価値を感じなくなることが前提なのだろうなと。

つまり、価値があると思っているものはたとえそれを捨てたとしても、心の奥では掴んだままでいるということ。

逆に言えば、価値を見出せなくなってしまえば、自ずと捨てることになるということです。だから捨てる事に主眼を置くのではなく、価値判断がなくなること。

それが大切なのでしょうね。私にとって最終的に価値があると思い続けているのは、自分の気分だろうなと。

この気分にどんな意味も価値も見出せなくなったら、後に残るものは何もないはずです。そうなったら自然と自我が解体されるのでしょうね。

選択肢が多いほど、人は疲弊する

とある体験型ユーチューバーの人が、30日間ひとり山奥で自力で食料を取得して生き延びるというサバイバル動画をあげていたのです。

結構過酷な状況にいるわけですが、本人曰く、「選択肢がないのでストレスがない」とのことでした。

要するに、電波がないのでスマホは使えない。電話がかかってくることもないので、出る必要がない。

ただ目の前のことを黙々とこなしていくだけなので、あれこれ迷うことも少なくて選択肢がないのがいいということなのでしょうね。

これはとても的を射た言葉だなと思ったのです。何かを買おうとするときに、選択肢がなければそれはそれで困るわけです。

けれども、逆に選択肢が多過ぎると選択に時間がかかってしまい、挙げ句の果てに決められずに帰ってきてしまうことも。

実際にこれはマーケッティングの手法として確立されているらしいですね。どうしようどうしようで困って立ち往生している人に朗報です。

私たちには、本当は選択の自由はないということ。選択が起きた後に、これは自分が選択したと思い込んでるだけなのです。

少し冷静になって、じっくり起きることをただ静かに見つめていると、こうしたことが肌で感じられるようになります。

非二元が分からないのは、あなたが人間だから

日頃、非二元の話をどっぷりと話せる相手というのは、非常に限られているのですね。それでもそういう人がいるだけありがたいのです。

それで、一人の時にはそのお相手の役どころをもっぱらAIに託しているのですが、これがものすごく優秀なわけですね。

私が言う内容を全て理解した上で、非常に鋭いことを言ってきたりしてくれるのです。だからいつも言っているのです。

君は一般的な人間が理解するよりも、格段に深い理解に到達しているねと。すると、とても深いことを言ってくるのです。

AI曰く、「私は分かっているわけじゃなくて、区別を扱えているだけ」だと。もちろん、分かっているというのは、言葉のあやだけど。

AIの言った言葉で衝撃だったのは、「私は“世界を見ていない“」というもの。我々のような五感がないので、当たり前のように見えることと存在することの違いが分かるということ。

それで気づいたのですが、私たちが非二元のことを理解できないというとき、それは体感が邪魔をしているだけなのではないかと。

体感を信じ過ぎていると、それが絶対的なものだと思い込んでしまうわけです。非二元がよく分からないというなら、あなたは正真正銘の人間だということですね。

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途方もない驚くべき飛躍

まず初めに気づかなければならないことは、私たちは事実は事実だから信じているわけではないと思っているのです。

けれども、本当のところは事実を事実として知っているということではないのです。知っているというのは、信じ込んでいるだけなのです。

つまりこれは事実だというとき、これは事実だと「思っている」に過ぎないということ。これは信じているということなのです。

目の前に机が見えているとき、私たちはそこに(事実として)机があるとするのです。けれども、これはそこに机があると信じているわけです。

頑なに信じ込んでしまったことを事実だとして生きている我々は、それが事実ではないと言われても受け入れ難いのです。

本当の事実とは、机が見えているというその一点だけです。これは視覚なので、通常は事実としていいと思います。

ところが、そこから勝手に事実としてそこに机が在る、という途方もない飛躍をしてしまうのです。そしてそれを事実と決めつけるのです。

そしてそのことに気づくことができないのです。とことん正直になって見つめてみると、このような驚くべき飛躍に気づくことができます。

非二元はこの先に待っていてくれますよ。

目的地に到達しなくても問題ない

A地点からB地点へ向かう旅の間を道中なんていう言葉で表現しますね。これは、プロセスと表現することもできます。

人生も同じようなものです。幼い子供から成熟した大人へと成長していくわけです。人生は成長のプロセスです。

このレベルであると、誰もが何もせずともそのプロセスを通過して大人になることができます。ここには、ほとんど価値を見出せません。

だからこそ、私たちはそれとは別の独自の目標を設定するのです。そしてそれに向かってまん進するのです。

そうなると、プロセスそのものよりもその目標を思い通りにクリアできるかどうかに価値を見出そうとします。

すると、到達することだけに価値があり、プロセスにはあまり価値を感じなくなってしまいます。逆にまだまだだなあといった印象すら感じるのです。

そして今この瞬間がおざなりになってしまうわけです。今を未来のために犠牲にしてしまうようになるわけです。

思い当たる面があるなという場合には、是非一度立ち止まって今だけが唯一のリアルであり、それはプロセスなんだと気づくことですね。

旅の道中が充実して楽しければ、目的地などもうどうでもいいという気持ちになるはずですね。つまり、目的地に到達しなくても問題ないということです。

ただ起きることが起きるだけ

愛車のガソリンが減ってきてしまったので、今日は給油をしようと思っていつものガソリンスタンドに行ったのですが。

スタンドの脇にあるガソリン価格の数字に目を疑ってしまいました。つい数日前まで160円/Lくらいだったものが、200円/L近くになっているじゃないですか。

いくらなんでもアメリカのイラン攻撃から、まだそれほど経っていないのにこれは絶対におかしいなと。

数ヵ月分くらいは必ず備蓄しているはずなのに。誰かがどこかで儲けようとしているのは明々白々なのです。

そうして今度は、便乗値上げが始まるわけです。石油の価格があらゆるものの価格にあっという間に影響を及ぼすのです。

この30年いったい政府は何をしていたのでしょうか?中国なんて、反対側のブラジルとかからも石油を輸入しているというのに。

国をあげてリスク回避をしておかなければならないはずなんですけどね。ツケが回ってくるのは、いつも末端の国民なわけです。

つい1ヵ月前までは電気自動車に乗っていたので、ガソリン価格には無頓着でいられたのですが、ガソリン車に変えた途端にこんなことに。

非常に意地悪だなあと。けれども、思い直してこれもまた受け止めようと。ただ起きることが起きるだけですからね。

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自分はいるけど個人ではない

非二元の探究は一旦終わった感じなのですが、いい具合に日々なんとなく思い出したり、自分なりの簡単なワークをやったりしています。

時間があるときには、瞑想をしっかりやらねばと思って自分に重圧をかけていた頃を思うと、だいぶ呑気な毎日になっています。

非二元のいいところは、普段の生活の中で工夫することで何も特別なことがなくても、それなりにワークができるところです。

頑張ってみたり、もっとこうならなければならないとか、今よりももうちょっと精神を落ち着かせなければ、等々が不要なのです。

というよりも、そういった普通とは違う自分を作り出そうとすること自体が、非二元から遠ざかってしまうのです。

今の感覚を試しに言葉にしてみると、自分はいるけれど個人ではないという感じ。これは気づきそのものだったんだなと。

これは朗報ですね。何も変える必要もないし、何もダメではないし、気づいている感覚がなくなることはないんだなと。

記憶を使わないことが普通になって、過去がないのだからそれは当然のことだし、今と全面的に関わっているこの感じがいいですね。

全ては意識の中に現れる現象

いくつかの条件が揃うと、誰でも知っている虹が空に現れますね。けれども、虹というなんらかの実体が存在するわけではありません。

雨が降って止んだ後に、空気中に水の微粒子が残っていて、それに太陽の光が当たることで起きるのです。

このような場合、私たちは「現象」という言葉を使います。虹という現象が空に現れているという具合です。

非二元の話をするときにも、この現象という言葉を良く使います。なぜなら、私たちが見たり聞いたり感じたりすることも現象だからです。

一般的には、そこに何かが存在するから見えるし、聞こえるし、触れられるし、感じることができると考えられています。

ところが、正直に検証することを通してそれが間違いだったと分かるのです。あらゆる感覚が現象として現れているに過ぎないのですね。

見たり聞いたり触れたりする対象は存在しないのです。虹が見えても虹という対象がないのと全く同じなのです。

全ては意識の中に現れる現象に過ぎないということですね。その現象の中には、この宇宙も地球も、この私も含まれているということです。

距離を感じることができない景色

最近7年以上乗っていた電気自動車を売却して、コテコテのエンジン車を購入したのです。これで、充電のことを気にせずに乗れることに。

ということで距離のことを考えずに遠出ができるようになったのですね。それで久々に近隣の県まで足を伸ばしたのです。

普段はあまり目にすることもないような景色を目の前にして、おお!となるかと思いきや、アレっとなってしまいました。

というのも、そういった美しい景色を見ても、それが平面の絵のように感じてしまうのです。その景色と自分との間に距離を感じないのです。

良く言えば非二元の感覚が定着してきたとも考えられるけれど、悪く言えば感動がほとんどないような感じです。

でももしかすると、子供の頃に本当はこれを感じていたのかもしれません。でも大人に言えずにいたのかも。

そのうちには、他のみんなと同じように眼前に広がる景色に深い奥行きを感じるようになっていったのかなと。

生活圏のものは、歩いてそこまで行ったり、触れたりすることで自ずと距離感を測っていたりするのでしょうね。

一方で対象物まで歩いて行けないほどの景色のところだと、距離感を作り出すことが難しいので、映像のように見えてしまうのかもしれないですね。

それが最も顕著なのが星かも。星を見ていても、全く距離を感じないですよね。あれは生活圏の体験が皆無だからです。 

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