「負け知らず」の人

みなさんは、「負け知らず」な人と聞いたらどんな人を想像するでしょうか?才能が豊かで何をしてもいつも人より劣ることがない人とか、いつも勝負に勝つ人とかかもしれません。

喧嘩に強い人や、とにかく弱々しくはないイメージがすぐに浮かぶと思います。しかし、本当の「負け知らず」な人というのは、そういったイメージの逆の場合がほとんどなのです。

例えば、子供の頃に親のことが怖くてビクビクしていて、自己表現することもできずにいるような子は、か弱い子と思うかもしれませんが、実は最強なのです。

学校でいじめっ子にいつもいじめられて、みんなの輪の中にも入れず独りで惨めにひっそりとしているような子が、本当は「負け知らず」な子なのです。

なぜそういった、最も弱そうな子が一番の「負け知らず」かというと、その子は決して白旗をあげてはいないからです。

欲しいものがあっても決して買ってと言わない子は、そういう辛い状態にも耐えることができるということです。それは最強とは思いませんか?

負け知らずな人は、得体の知れない怖い存在に追い掛け回されるような夢を見るかもしれません。なぜなら、負けを認めずに逃げ回っていられるからです。

白旗をあげる人は、すぐに逃げるのをやめてもうどうにでもして下さいと腹をくくるはずなのです。絶対に負けないという人だけがいつまでも逃げ回るわけです。

子供のころから頑固で表面では弱々しくしているものの、心の奥では負けを認めない人、そういう人が「負け知らず」な人なのです。

「負け知らず」な人とは、限りなく自分を防衛し続けることのできる人のことです。自己表現をしないのも、おとなしくして耐えているのも、みんなそういう人であるわけです。

弱い犬ほどよく吠えるということわざがあるように、本当に弱いものはよくわめいたり、自己表現がさかんにできる人なのです。

自分が気が小さくて言いたいことが言えないと嘆いている自覚のある人、そういうあなたこそ実は「負け知らず」な最強の人だと気づく必要があります。

そして、すぐに白旗をあげてまいりましたと言える人ほど、生きていてダメージは少ないし、幸せを手に入れやすいということを覚えておいて欲しいと思います。

無駄な時間

学校を卒業して就職した年に、その職場の標語のようなものを教え込まれたことがありました。それは「ムリ」、「ムダ」、「ムラ」、という三つの「ム」をなくせ!というものでした。

確かに仕事場でムリをすると危険が伴いますし、気分のムラは精神上よくありませんし、ムダは効率を低下させることにつながりますね。

しかし、プライベートな時間においては、無駄な時間というものがあってもいいというふうにみなさん思っているはずです。

仕事や勉強などで疲れた心身を、ゆったりとした時間を過ごす事でリフレッシュすることはいいことですね。それは一概に無駄とは言えないかもしれません。

私は、もう長い事のんびりとした時間を過ごす癖がついてしまっています。特に、夕食時にダラダラと長い時間お酒を飲んでいたり、テレビを見て大笑いしていたり、ネットで気になる情報を読んでいたりします。

そういう余暇の過ごし方を特には無駄な時間だとも思っていませんでした。しかし、心のどこかでは他にやることがあるのにと言う声も聞こえたりしていました。

とはいうものの、そういうことで自分を責めることはほとんどなかったのですが、どういうわけかここに来て急にそういうダラダラとした時間を費やすことに魅力がなくなってきたのです。

何となく無駄だなあという感覚だったり、あまり必要ないかも知れないなあという感覚がやってきています。長い間の習慣となってしまっていただけで、本当は必要ないのかもしれません。

そういった時間を自分が本当にしたいと思っていることに当てることができると、やっぱり気持ちがいいのです。

人はあらためて一大決意などしなくても、時期が来ると自然に変化していくものなのかもしれません。でもまだまだ未練は残していますが…。

特別でありたい自分

少し前に「特別な自分」というブログの中で、誰もが自分のことを特別だと思っているということを書きました。

特別視するあまりに、自分を客観視することができなくなってしまい、不要な緊張を起こしてしまったりするということをお話ししました。

この特別さというものを私達はどう思っているのでしょうか?少し掘り下げて考えて見ると、自分は特別だと言う事と、自分は特別でありたいということとは違うように感じます。

つまり、本当に特別だと思っているのなら、特別でありたいとは殊更思わないはずなのです。しかし、他人と違う服装をしてみたり、目立つクルマを所有したり、個性を発揮しようとするのはそのままでは特別さが薄れてしまうという恐れを持っているということです。

本当は自分が特別だとは自信を持って思ってはいないのではないかと勘ぐってしまいたくなります。そして、自分の心の中をよく観察してみると、特別でありたいという気持ちを強く持っていると分かります。

きっとこれは万人に共通の気持ちだろうと推察しています。ということは、心の底では特別ではないということを分かっているのかもしれません。

その秘密を伏せておいて、特別な自分になりたい心の部分が「からだ」を作り、その「からだ」こそが自分であると思い込ませたのです。

そういった目的で「からだ」を作ったために、「からだ」は他とは違う個別性を持つことになったということなのではないかと思っています。

自分を特別な存在に仕立てるために、私達は「からだ」を用いて他との比較において優劣をつけたり、勝敗を決めて特別さをより鮮明に証明することに躍起になっているのです。

自分の普段の毎日の生活を思い出して、より明確な特別さを求めていない行動というものが果たしてあるのかどうか考えて見て下さい。

いかに自分が特別さを必死になって求めているか気がつくはずです。その頑張り方は尋常ではないのです。勿論、その理由は特別ではないという秘密を隠しもっているからなのだと思います。

「からだ」と「心」

私達は自分のことを「からだ」と「心」というふうに見ています。そして、それらは次のように分けることができるのです。

「からだ」 -見える部分 —— 肉体
      -見えない部分 —- 頭脳、能力、気質、性格

「心」   -自分を「からだ」だと思っている部分
       -本当の自己を知っている部分

ここで気をつけなければいけないのは、目には直接見えない「からだ」の部分である頭脳や気質などを「心」と勘違いしがちなことです。

その人の個性として捉えられるものはすべて、「からだ」の機能であるDNAにその設計図が入っているので、区分けとしては「からだ」であると言えるのです。

そしてその「からだ」を自分だと思っている心の部分で我々は生きているために、頭脳や気質などは「心」だと勘違いしているのです。

つまり、「からだ」はDNAによる個別性を持っていると思われている部分であり、「心」はその反対に個別性を持たない部分であると言えるのです。

ちなみに、自分を「からだ」だと信じている「心」の部分をエゴと呼び、真実の自己を知っている「心」の部分を愛と呼べると思います。

そして残念ながら、我々はほとんどがエゴの部分で自覚しているために、すべての人の「心」が同じものであって個別性はないということが分からないのです。

何度も繰り返しますが、「心」そのものには何の違いもありません。ただ、一つひとつの「心」が自分は「からだ」だと信じている部分を持ち、その「からだ」には個別性があるために「心」そのものも個別性があると思い込んでいるということです。

どの「心」もそのもの自体は何の違いもないということは、すべての「心」は一つであるということになるのです。それこそが愛なのです。

笑い声が好き

私はお笑いが大好きで、いつも大口を開けて大声でわっははわっははと笑っています。その割には、自分の笑い声というのがどんなものかはあまり把握できていません。

最近私は人の笑い声が大好きなんだということを発見しました。何となくは気づいていましたが、意識して聞いて見たらそのことがはっきり分かったのです。

先日近所を歩いている時に、幼い女の子が前を歩くお母さんをよそに立ち止まって、ものすごく愉快そうに笑っているのを見ました。

その笑い声が何と表現したらいいか分からないほど、心地いい響きだったのです。思わずその姿と声に見とれてしまったほどです。

自分の子供達が幼かった頃の笑い顔や笑い声を今も記憶していて、時々思い出したりもしています。そう言うときにはとても暖かな気持ちになれるのです。

笑い声にもいろいろな種類のものがあるのでしょうけれど、笑っている本人が腹の底から愉快で楽しくて出している声なら、きっと誰の笑い声でも素敵なんだろうと思います。

笑うかどには福来たる、というコトワザがあるくらい、笑っていればとてもいい気持ちになれるものですね。だからこそ、笑い声が好きなのだと思います。

そう言う意味では、屈託のない笑い声が一番好きかもしれません。戒律の厳しいどこかの国では、女性が歯を見せて笑うことはみっともないこととされていたりします。

今の日本ではそんなことはないですから、誰もが何も恥じることなく心の底から大笑いできる世の中であればいいなと思います。

私の前で笑ってくれる人がいると、私はとてもいい気持ちにさせてもらえるので即感謝してしまうくらいです。みなさん、沢山笑って下さいね。

恵まれた人生

今ふとサラリーマンを辞めようと決意した頃のことを思い出していました。それは今からちょうど10年前の4~5月のあたりだったと思います。

それからあっという間に人生が変化して、今のような仕事をする毎日になったのです。会社員だった頃と比べると随分と経済的に危機的な状況ではあるのですが、ある意味とても満たされてもいます。

不景気のせいなのか、ほとんどセッションの予約が入らなくなってもう一年以上経つのですが、そのために自由にできる時間が沢山あるのです。

予約が立て込んでいたときには、買い物に行く時間もなくて困ったこともありましたが、それと比べると今は散歩でも買い物でも好きなだけできます。

また個人的にやっているボランティア活動にも多くの時間を割くこともできますし、何と言ってもライフワークになってしまっている「奇跡のコース」をゆったりとした気持ちで読むこともできます。

潜在意識では今だに結構な拒絶があるようで、すぐに眠くさせられてしまうのですが、うまくそれを乗り切ってあげることができると、とても気持ちよく読み続けることができます。

そんなときに、ふっと自分の人生の幸福を感じることができます。物質的には豊かとは言えないにしても、なんと恵まれた人生なのだろうと思うのです。

毎日の時間のすべてをほとんど思うがままに過ごすことができるし、自分の生きる目的に沿って日々の時間を費やすこともできる人生で本当によかったという気持ちが湧いてきます。

きっと人は究極的には何もなくてもいいのでしょうね。内面的な満足感さえ感じることができたら、もうそれは最大限の恵みに満ちた人生なのだと思うのです。

人生は自分の思い通りになると思います。そうは思えないという場合でも、必ずそうなっているはずです。

もしもどうしても納得がいかないのであれば、自分は本当に幸せになることを望んでいるのかどうか、そうではない意識がないかどうか、心の中をよく観察してみることです。

人間とは関係性そのもの その2

昨日のつづきです。

自分を個体として見るのではなく、他との関係性そのものとして見るということについてお伝えしましたが、なぜそうした見方が大切なのかということについてお話しします。

自分を個として見てしまうと、どうしてもその大切な個を守ろうとする意識が出てきます。つまり個体を防衛しようとするということです。

それは言葉を変えると安心や願いを求める心であると言えます。そうした心というのは、他との関係性をすべて求めるため、防衛するために使おうとしてしまうのです。

しかし、自分を個として見る比重を小さくしていき、代わりに関係性を重視するようにしていくと、個としての自分を守ろうとする気持ちも小さくなっていきます。

防衛が少なくなれば必ず与える心が増えてくるのです。与える心は個を見つめるのではなく、他との関係性の中にこそ息づいているのです。

関係性をもっと重要視すればするほど、個への注意が小さくなっていくことになります。そうなってくると、昨日描いた丸と線の図の様子が大きく変わってくるのです。

自分や他人を個として描いた丸が点のように小さくなるのと反比例して、丸同士を結んでいた関係性を表す双方向の線が束のように太くなり、しまいには隙間がないくらいに大きく点と点を結ぶようになるはずです。

そうなると、点はあってもなくても同じになって、関係性だけの図が出来上がることになるのです。その関係性とは与える心である愛で埋め尽くされるはずなのです。

そして関係性だけになるということは、すべての心が一つであるという意識として互いに分かち合われることを意味します。

それこそが究極の姿であり、関係性を作ってきたコミュニケーションが終わるときなのではないかと思います。

人間とは関係性そのもの

人間とは何かという最も素朴な質問に対して、自分の中でここ数年とても大きなパラダイムチェンジが起きました。

自分が自分であるために最も必要なものは、自分以外の人との関係なのだということが分かったということです。

勿論、自分が生存し続けるためには、空気や食物や太陽など、必要不可欠なものは沢山あります。しかし、自分自身がそうしたもの自体ではないということは自明のことですね。

人との関係性というのは、そうしたものとは全く異なる次元で必要だといっているのです。必要というよりも、関係性が自分自身であるとも言えるということです。

生物としての自分は日々個体としての活動を繰り返しているわけですが、その活動の一つとして他者との関係性があるということではないと言っているのです。

個として自分を見るというよりも、関係性そのものが自分であるという見方をするようになってきたということなのです。

例えば、個体としてみた自分を一つの丸として描き、その周囲に複数の他人をそれぞれが別々の丸として描いたとします。

関係性とは、個体としての自分である中心となる丸から、他人である周囲の丸に向かって放射状に延びている線を意味しています。

放射状に延びる線は出て行く向きと入ってくる向きの両方があるはずです。その時に、自分とは中心の丸で描かれたものではなく、その双方向の線として描かれた関係自体だと言っているのです。

個体としての生物として物質的に見れば、中心にいる丸が自分であると言えますが、自分とは心だとすると線で描かれた関係性であるということです。

この気づきは私の心の中ではとても大きなインパクトがありました。関係そのものが自分であるということから、どんな大切なことが導き出せるのかについて説明していきたいと思います。

つづく

罪悪感と向き合う

私達の心の中心には、幼いころから築き上げてきた信念や信条、あるいはルールのようなものがどっしりと居座っています。

そういったものに背かずに従順に生きていくことで自分を守れると信じているのです。しかし、ときにはそのルールを勇気を持って見直さねばならないときが来ます。

例えば、子供のときに大好きな親の言うことは出来る限り守ることにしよう、大切な親の期待にはできるだけ応えるようにしようと思っている人は沢山います。

その人が親の期待に逆らって、自分がやりたいと思う道に進もうとするときには、必ず心の中に強い葛藤を感じることになってしまいます。

そして、自分の思いを優先して人生を進めていくことを想定すると、親の期待を裏切ることからくる激しい罪悪感に苛まれてしまうことになるのです。

その決断のときに、罪悪感に打ちのめされてしまうことに恐怖を感じて、親の意向に沿った人生を選んでしまうと、後々後悔することになったり、場合によっては親を恨んでしまうこともあるかもしれません。

親の気持ちを優先するべきか、自分の思いを実現させるべきか、この選択にはどちらが正しいという決まりはありません。

しかし、自分の希望する道を進もうとするときに発生する罪悪感と向き合うことから逃げるべきではないのです。

どちらを選択するにしても、罪悪感と対面してそれをしっかり受け止めてあげることがとても大切なのです。

罪悪感は恐怖と非常に類似したただの感情ですので、それを正面から見つめて感じ尽くすことができれば、乗り越えることができるのです。

その上で、選択をしても遅くはありません。どんな場合でも、罪悪感から逃げずに向き合うことを習慣付ければ、いずれは罪悪感そのものを大敵とはみなさなくなってくるのです。

それは自分のことも他人のことも許すという愛の心へのパスポートなのです。

駄々っ子の気持ち

大人になってから、ふとしたときに自分が子供であった頃の気持ちをすっかり忘れてしまっていると気づくときがあります。

それは街でなにげなく見ず知らずの子供の態度を見ているときなどに、何かが蘇ってくるような感覚になったり、独りでいるときでも何かの過去の気持ちがあがってきたりするのです。

私達は年齢とともに勝手に子供から大人になっていくと思っていますが、実は多くの経験を積むなかで、自覚の大小はともかくとして自分で自分を大人に仕立て上げていくのです。

決して自動的に大人の意識に変貌するわけではないのです。つまり、大人の自分とは必要に迫られて子供の自分が作りこんだモノだとも言えるのです。

分かりやすく表現すれば、子供の自分が大人の自分を着込んでいるということです。単に大人である自分に慣れ親しんでしまっただけで、自分の中心には子供の頃の自分が隠れているのです。

心の癒しを実践していると、そうした子供の頃の自分がしっかりいるなということをつくづく感じてしまいます。

特に自分を防衛しなければならないという気持ちが強くなったときには、その部分を明確に感じることができます。

私の場合には、駄々をこねている幼い男の子が見えます。実はとても恥ずかしがりやだし、寂しがりやだし、それでいて駄々っ子のような、なかなか気難しい子供です。

大人の自分が無理をしたりして、無意識のうちに防衛する方向に心が向かうと、すかさずその子が出てきて駄々をこね出すのです。

場合によっては身体の具合を悪くすることもありますし、周りの人に対して攻撃的になって自分の気持ちを訴えたい欲求が出てきます。

最近では、そんなときには自分の奥にいる駄々っ子の男の子をしっかり受け止めてあげるようにしています。

うまくできたときには、身体の具合は快方に向かいますし、攻撃的ないやな気持ちもふっと消えていってくれるのです。

自分が何となく今大人気ないなと感じたり、急に具合が悪くなってしまったときには、試してみて下さい。きっと短い時間で大人の自分を取り戻すことができるはずです。