常識に飲み込まれるな

より自然に、より自由に生きようとしたときに、それを邪魔するものとして挙げられるものの一つとして、常識というのがあります。

常識的に考えたらそれはダメでしょう、と言っている声が聞こえるようになったら、その時はそれを越えるチャンスだと思ってください。

聞こえるということは、それとの一体化が薄れている状態だからです。例えば、これから寒い冬に向かうという時に、水のシャワーを浴びるのは非常識ですね。

実はこの夏頃から、朝起きてすぐに入る朝風呂で、真っ先に水のシャワーを浴びるというのを習慣にしているのです。

夏の間は良かったのですが、そろそろ朝夕の冷え込みがやってきた昨今、それでも朝の起き抜けの水シャワーはどうなんだ?という常識人の声が聞こえるのです。

こんな馬鹿なことをしていたら、いずれは風邪を引くことになるぞとか、こんな非常識なことをしていいことなんか何もないぞ、という声が聞こえるのです。

けれども、実際の体感としては別に寒いと感じることも身体に悪いと感じるようなこともなく、ちょっと気持ちいい程度のことなのです。

水シャワーの後はすぐに暖かい湯船に浸かるので、何も問題はないのです。こんなことを毎日の習慣にしていてはっきり気づくことがあるのです。

それは、常識という一見理性的な思考がもっともらしい説を唱えてくるのですが、本当はそれは誰かが言い出した意味のないことでしかないのです。

水シャワーに限らず、常識にそぐわないと思われるようなことを見つけて、実際に試してみることをお勧めします。

いかに普段から常識の枠に囚われて生きているか、ということに気づくはずだからですね。

優しさという形の自己防衛

本当の優しさとは、相手の立場に立てること。相手の気持ちをおもんばかることができること。

相手に憑依して、相手を思いやることができることです。このことに異論を唱える人はいないと思います。

けれども、だからと言って相手の気持ちを実際に優先するかどうかは全く別の話しだということを知らない人が多いのです。

相手の気持ちというのは、決して分かるものではありません。だからこそ寄り添って、分かろうと努めることには意味があるのです。

ただし、正確には分かりようがないということを前提として理解しておくことです。他人の気持ちが手に取るように分かるなどと言わないことです。

それはとても傲慢なことですから。分からないなりに少しでも近づこうとすることが大切なわけです。

それと同時に、相手を優先して自分を抑えるのは優しさではなく、防衛だということも理解しておかなければならないのです。

もしもあなたが自分の優しさの中に、自己犠牲が少しでも含まれると感じるのでしたら、それは防衛だということです。

防衛は長く続ければ、自己犠牲が蓄積していき、いずれは相手への怒りとなって表出することになるのです。

そこまできてようやく、あれは優しさではなかったと気づいたところでもう手遅れです。そうならないためにも、常に自己犠牲がないかどうかをチェックすることですね。 

エントロピーの話再び

ちょうど一ヶ月前に、このブログでエントロピー増大の法則について書きました。その法則には、自我が深く関わっているという内容です。

何とも分かりづらい内容だなと思いながらも、あの時にはこれ以上の説明は更に内容を複雑にしてしまうと思って、あのままアップしてしまったのです。

少し後悔が残っているので、今日もう少し分かりやすく書いてみようと思います。あの時のエントロピーの記事 http://healing-office-lucid.com/2022/09/26/自我とエントロピー/ とあわせて読んでみて下さい。

縦10マス、横10マスの計100個のマスがあって、一つのマス毎に白になったり黒になったりすると仮定します。

あらゆる白黒の組み合わせは、2の100乗通りあるわけです。つまりは、一つの組み合わせになる確率は、均等に2の100乗分の1です。

私たちは、100個のマス全てが白か黒になるパターンを特別視しますね。あらゆる組み合わせの中でも特別だと感じるからです。

あるいは、右半分が全部白で、左半分が全部黒など。このような特殊な組み合わせは秩序があると感じるわけです。

そして私たちが秩序を感じる組み合わせは、あらゆる組み合わせの中では非常に極端に数が少ないのです。

その一方で秩序を感じない組み合わせは膨大な数だけあるのですが、なぜか全部同じもののように見てしまうのです。

そうした自我の我儘な見方のせいで、この世は無秩序になりやすいということが法則のようになってしまったのです。

全く秩序を感じないとある一つの組み合わせも、全部が例えば白になる組み合わせも確率的には全く同じなのですが、そこを見ないのですね。

どちらも2の100乗回に一回はその組み合わせになるはずなのです。と、今回もこの説明は何だか惨敗の匂いがします。

お伝えしたかったのはもっとシンプルで、要するに自然界の法則と言ったってそれは自我がいるからこそのものだということですね。

天国も地獄も場所ではない

一般的な天国というもののイメージは、何の苦労も何の心配もなく、全ての欲望が満たされて困ったことが一つもない世界。

だからこそ、誰もがみな親切で、愛に溢れていて、争いごとが全くない場所だと考えられるのです。素晴らしいところだと。

けれどもよくよく考えてみると、それは場所ではなくて私たちの内面の状態のことを指していると思える言葉ばかりですね。

つまり天国というのはどこかにあるのではなくて、私たちの心の状態のことを言うということ。地獄もまた然り。

地獄もそういう辛く苦しい、暗黒の場所がある訳ではなく、私たちの心が絶望や憎しみなどで満たされている状態のことです。

そして、自我は地獄では問題なく生き続けることができるのです。なぜなら、地獄は闘う場所だからです。

一方天国では、自我は決して生き続けることができないのです。闘いがなく、欲望も消えて完全に満たされた状態では、自我は溶け去るしかないからです。

つまり私たちが死んで天国に行くというのは、あながち間違った表現ではないということですね。

自我が死んだら、即座に私たちの本質が顕れるのです。そこに分離などはなく全ては全体という一つに戻るのですから。

静かに満たされる

今日仕事を終えて、すっかり暗くなった街を歩いているときに、不意に自分が何歳なのかが全く分からないというのがやってきました。

よ〜く感じてみると、子供のようでもあり、大人のようでもあり、また老人のようでもあるのですが、本当はどれも当てはまらない感じもするのです。

鏡を見れば自分の姿をまるで他人のように見ることはできるのですが、街を歩いている時には顔がないのです。

自分の肉眼を通さずとも、周囲のものが全て見えるだけでなく、その全てが対象物ではなくなってしまうのです。

自分の顔、頭がない時には他もなくなって、自他が消えてしまいます。無理やり自己イメージを手繰り寄せれば、そこには何らかの人物像が浮かぶのです。

けれども、もうそれはそぐわない感じがするのです。これを書いている今この瞬間も、その感覚がありありとあるのです。

それはずっと在ってなくなったことはないのですが、それに気づかなくなっていただけだということもはっきりしています。

自分は誰でもないし、何でもないという、とても静かなこの感覚の中にいるだけで、どんな理由もなしに深く満たされた状態になるのも不思議です。

降参→自我消滅→愛

osho が云います。流れと闘う必要はないと。ただそれに従い、それと共に浮き漂えばいいと。川に身を任せてごらん。降参しなさい。愛とは降参することだと。

ぼんやりとこの言葉を聞いているだけでは、良さげな事に聞こえるだけで、なぜそうなのかを理解することはできません。

云っている内容は簡単ですが、それを実践するとなるととてつもなく難しいのです。それは自我が抵抗をするからですね。

流れと闘う必要がないと言われても、自我にとっては闘うことは生きるためには絶対的に必要なことだからです。

川に身を任せてしまったりしたら、自我は不安になって自分を保つことができなくなると思っているのです。

降参などとんでもない。負けを認めてしまったら、相手に搾取されるだけだと。なぜ愛は降参することだとまでいうのか?

自我という個人は本当の愛を知りようがないのです。本当の愛は、自分はいないということと同じことです。

自他が消えた時に初めて、愛の状態になるのです。降参して闘うことを放棄した時に初めて、自我が消えてその結果として愛がやってくるのですから。

あなたの生きる指標は?

私自身の人生の指標となるものは、より自然に、より自由に、より無邪気に、というものです。それ以外は潔く切り捨ててしまいました。

というのも、それ以外のものをどれほど体現できたところで、自我の一瞬の満足以外に価値のあるものがないと理解できたからです。

自我の一時的な満足ほど虚しいものはありません。頑張ることに価値を見出すだけならまだいいのですが、それがどれだけ我慢するかに変化してしまうのです。

そうなると、自分が我慢した分だけ他人にも同等の我慢を強いるようになるのです。それがマインドの仕組みです。

それは本当に優しくありません。人が芯から優しくあるためには、自然に生きること、自由に生きること、無邪気さを失わないことなのです。

義務感や罪悪感などから自分に我慢を強いることを自己防衛と呼んでいるのですが、それは人を優しさから遠ざけてしまうのです。

あなたが自然さを保って生きているなら、人が自然に生きるのを喜んで見ていられるのです。あなたが自由なら、人の自由を決して奪いたくなくなるのです。

そして無邪気に、無防備に生きることができる人は、その逆の生き方をしている人とは疎遠にならざるを得ないのです。

それがエネルギーの法則ですね。

知恵を使って生きる

もっともっとお金があれば、あれもこれも欲しいものを何でも手に入れることができ、きっと幸せになるに違いない。

このようなことは多くの人が一度は考えたことがあるはずですね。けれども、あなたがかなりの富豪であるなら、そんなことはないと小声で言うかもしれません。

幼い頃からオリンピック選手を目指して頑張ってきたとしたら、晴れの舞台で金メダルを獲れたらきっと幸せに違いない。

けれども、あなたが実際に金メダルを獲得したことがあるなら、やっぱりそんなことはないと囁くかもしれません。

私たちは他人からどう言われようが、自分が経験しないことは分からないものなのです。欲しいものが手に入った人だけが、それでは幸せになれなかったと気づくのです。

だから生きている限り、次々と欲しいものを変えて行き、これでもダメ?あれでもダメ?といつまでも繰り返すことになるのです。

ここで必要となるのが、イマジネーションの力と知恵ですね。それによって、ある程度の経験をもとに、それ以降は実際に経験せずとも見通すことができるはず。

一生をかけて欲しいものを次から次へと手に入れてきたはずなのに、何だろうこの虚しい感じは?とならないためにも、知恵を使うのです。

なるべく早くに、人生というのは所詮満足することができないものだと気づくこと。これこそが本当の知恵ですね。

体験することが目的

クライアントさんの中には、自分の人生の目的を知りたいという人が時々いらっしゃいます。確かにそれが明確になったなら、ワンランク人生がシンプルになる気がします。

究極的には、人生にはどんな目的もないということを承知の上で、自我のレベルに戻って人生に目的があるとしたら…、で考えるのは悪いことではないですね。

私の自我は、色々体験するために生まれてきたのだろうと考えているようなのです。つまり、体験を積むことが人生の目的だと。

そう考えてみると、うまいこと行くなあと思えるところも確かにあるのです。というのも、体験には自分にとって都合のいい体験も都合の悪い体験もあります。

けれども、体験することこそが目的だとなったら、いいも悪いも無くなってしまうのです。どれほど都合の悪い体験だったとしても、それを体験できたことを感謝する気持ちになれるのですから。

体験をしたい、せっかく生まれてきた大チャンスなのだから、貪欲にあらゆる体験をしてから死にたいというわけです。

そうなると、どんな体験がやってきたとしても、とにかく感謝がやってきてくれて、とてもいい気分になれるのです。

借金まみれになる体験、裏切られて生きていられないと感じる体験、誰よりも惨めだという体験、復讐心で潰れそうになる体験。

何であれ体験ができれば生まれてきた甲斐があったと思えると、少し気持ちが楽になれますね。これ、気に入ったら是非使ってみてください。

極端な考えは子供のもの

幼い頃というのは、誰でも白か黒か、百かゼロか、敵か味方か、善か悪かといった極端な見方をしているものです。

これにはちゃんとした理由があるのです。弱者であればあるほど、自分の身を守らねばと思う気持ちが強くなりますね。

だからこそ、あの人はいい人であの人は悪い人とはっきりと区別することで、安全を確保しようとするのです。

いい人か悪い人かどちらか分からなければ、それだけ危険だからです。私のマインドの中には、敵か味方かで他人を見る幼い奴がいます。

何かの拍子に彼が暴れ出すと、周りにいる人はみんな敵だと訴えてきます。地球上の全員亡き者にしてしまえ!と勇ましいのです。

きっと自分が惨めで情けなくて可哀想な奴だと思っているからこそ、敵だらけに見えてしまうのですね。

大人になって余裕ができてくると、善悪は混ざっているものだという理解をすることができるし、敵でも味方でもない人が沢山いると分かるのです。

ただ大人になっても、余裕がなくていっぱいいっぱいで生きている場合には、子供のような極端な考え方をしてしまう場合もあるのです。

もしも極端な考え方が出てきてしまったら、それはインナーチャイルドが暴れていると理解するといいと思いますね。