投影の構造 その2

昨日のつづきです。

もしも、自分の心の中に人を攻撃したいという思いがあると、攻撃的な役柄を演じる人物を外の世界というスクリーン上に作り出します。それを肉体の目を通して見ることになります。

また身体を持った自分自身もスクリーン上の一つの像として見ているのです。例えば、罪悪感を感じたくないという気持ちがあると、一番の安全策である被害者になろうとする脚本を作ります。

被害者は加害者と違って、悪くないし、ただ酷い目に遇わされたと文句を言っていればいいだけだからです。そうすると、それに見合った加害者の役者を自分にあてがうことになります。

そうしたストーリーをこの現実というスクリーン上で展開することによって、あたかも自分が被害者の経験をしたかのように思わすことができるのです。これは罪悪感を感じないで済むことを成功させてくれます。

ここで考えてみて欲しいことがあります。例えばあなたが自分を被害者にし、相手をそのために加害者にするという脚本を書いたとすると、その相手の作る脚本とのすり合わせはどうなるのでしょうか?

この場合、相手はあなたにとっての加害者の役を演じるので、相手の脚本上でもその人自身を加害者にするように設定されている必要がありますね。そんなにうまくすべての人の心が作った脚本同志が互いに完全に一致するなどという偶然があるでしょうか?

ここにこそ、投影の本当の構造を知る鍵が隠されています。つまり、あなたの心の中のエゴが自分自身を投影して、被害者という現実を起こしていると同時に、相手の心の中のエゴがその人自身を投影して、加害者という現実を起こすというのは偶然ではありません。

地球上のすべての人の心が個々に作った現実同志がそんなに上手に、あるいは偶然にも調和がとれるなどということがあるはずがありません。

実は、私たちという個々人の心の中にあるそれぞれのエゴが実際に実在するのではなく、それはたった一つ(唯一)の心のエゴの投影だったということです。

つまり、この世界は自分の心の中のエゴの投影に過ぎないですし、更にその自分の心の中のエゴも他の全ての人のエゴもそれは全部まとめて一つのエゴの投影だということです。

だからこそ、すべての人の投影した結果が互いに辻褄が合うのも当然なのです。 この大元の一つのエゴが自分は分離して細切れになったという幻想を抱いているに過ぎません。

幻想というのは、実在ではない愛以外の想念のことを言います。こういうことを何となくぼんやりと理解していくと、この世界で起こるいやな出来事などに心を傷つけられることがなくなります。

そしてすべてを穏やかな目で見るようになっていくことで、次第に自分の心から苦悩のもととなる分離という幻想が消えて行くということです。それは結局、大元の一つのエゴの分離という幻想が消滅して、すべては一つという愛に戻っていくことを意味します。

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