聖人

歴史上あるいは現存している聖人と言われるような人たちは、崇高な心を持つようになって最高の人格者と思われているはずです。

どんなことがあっても心を乱すことなく、常に冷静で愛に満ちているという印象を受けます。それに引き換え、この自分のなんと卑小なことか。

何とか自分もそうした有名な高僧のような人の心を持つようになれたらいいのにと思ったりするかもしれません。

しかし、夢を打ち砕くようなことになってしまうかもしれませんが、こんな未熟な自分とは比べ物にならないくらいに悟りの境地に達している人でも、イラっときたりするのです。

そうした凡人と同じような反応をする心の部分がまったくなくなってしまうわけではないということです。落胆しましたか?それとも安心したでしょうか?

イエス・キリストにしても、不機嫌であったこともあるという文献を見たことがありますし、実際悟りに達したような聖人自身が、弟子たちにそうしたことを伝えている事例はいくつもあるようです。

では、すぐにムカッときてしまう一般人の私と聖人とは一体何が違うと言うのでしょうか?それはきっと、本当の自分に深く気づいているかどうかという点だと思います。

本当の自分とは、誰でもない真の自己のことであって、その部分は誰の心の奥にもあってそれはこの世界をすべて受け入れている愛の塊なのです。

したがって、彼らはムカッときたとしてもすぐに冷静さを無理なく取り戻すことができるのだろうと思います。そして、もちろんそれを後に引きずったりすることもありません。

そして奉仕の精神や慈愛に満ちた活動をしているかもしれません。今日伝えたかったことは、平凡な人間としての部分というのは、いつになっても変わらずにあるということ。

そのことを嘆いたり自己嫌悪したりする必要はまったくないということです。そこを悔い改めようと頑張るよりも、真の自己と繋がる習慣を身に着けることのほうがきっと簡単ですし、より効果的だということです。

いつになってもしょうもない自分をやさしい笑顔で支えてあげるくらいの気持ちが大切なのではないかと思います。

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