私たち人間の普遍的な目標の一つは、依存状態にある幼い心を成長させることによって、立派な自立した大人になるということです。
それそのものが目標というよりも、大人になって仕事をするにしても何にしても個人の目標を達成するためには、心の自立というものが前提条件とも言えるわけです。
なぜなら、精神的な自立を達成することができなければ、人としては半人前であり、成熟した大人同士の対等な人間関係すら築くことができなくなってしまうからです。
自立を達成するためには、心の中にある自我が年齢に応じて発達する必要があります。自我によって、人間として持っている様々な能力を自分のために使えるようになるからです。
ところが、自我の本質というのは自分を守るための心のメカニズムであるとも言えるわけで、そのためには物事を解釈したり、判断したり、場合によっては裁くこともするのです。
物事の善悪や正不正、真偽などを理解し、認識する能力が絶対的に必要となるのです。従って、自立しているという自覚のある人は、こうした能力についてある程度自信を持っているはずです。
しかしながら、最近のこのブログでも何度もお伝えしているように、自立を達成しても残念ながら心の満足を得られるわけではないのです。
人間というものの最終形は、自分のためだけに生きるのではなく、自分を脱して誰かのため、何かのために生きるように設計されているのです。
その状態に近づかなければ、決して満たされるということはありません。純粋な愛にしても同じことが言えるのです。
無私の愛というのがそのことです。自分(自我)が真ん中にあって、その自分が誰かを愛すると言う場合には、自我の愛であるに過ぎません。
その愛では人は決して満たされることはないのです。人は、無私に近づかなければ満足できないように作られているからです。
自立の状態とは、自我を最大限発達させた状態でもあるので、その状態から無私(脱私)の状態へと変遷することは相当に難しいと感じるかもしれません。
何となくなのですが、私たち全員がそうした無私の方向へと生き方を転換する時期にさしかかっているような気がするのは私だけでしょうか。