ふとしたきっかけから、10年以上前のものと思われる、あるテレビドラマを Youtube で見る機会があったのですが、「誰かのために生きる」ことが人生の活力になるという内容でしたので、ちょっとご紹介させて下さい。
それは、自分の人生に生きがいを見出せない男性が、うつうつとしたやる気のうせた毎日の中で、仕事もせずに浮浪者のようにしていたときのこと。
路地裏で食べ物を漁っているときに、捨てられていた赤ちゃんを見付けてしまいます。その赤ちゃんがあまりにも可愛かったので、家に抱いて帰って育てることにしたのです。
それからというもの、その男性は生きる目的ができたおかげで重労働にも耐えて真面目に働くようになったのです。
これはまさしく、自分以外の誰かのため、何かのために生きるという、脱私の状態になることができたということなのでしょうね。
それからは、貧しい暮らしであっても心は満たされて、二人で仲睦まじく幸せな生活が続くのですが、子供が中学生まで成長したときに、突然その子の本当の親だと言う人が現れます。
そして、その子を返して欲しいといわれてしまうのですが、当然生きがいであるその子を手放すなど考えられないのですが、あるときその子が怪我をして輸血をしなければならなくなります。
珍しい血液型であったため、仕方なく育ての親は本当の親に連絡して、無事輸血してもらうことができるのですが、結局それがきっかけでその子を本当の親の元へ返すことになってしまいます。
また独りになってしまったその男性は、生きる望みがなくなってしまい、赤ちゃんを拾う前のような浮浪者のような生活に戻ってしまうのでした。
つまり、誰かのために生きるという真の愛の状態から、まったく意欲の出ないうつうつとした精神状態に簡単に戻ってしまったということです。
依存(自己犠牲)⇔自立(自己愛)⇔明け渡し(自己脱)のように、この三つの状態は常に行ったり来たりして、固定されたものではないということですね。
このドラマでは、依存(自己犠牲)⇔明け渡し(自己脱)のように動いていて、真ん中の自立(自己愛)の状態を飛ばしてしまっていたのが一つの問題なのではないかと感じます。
やはり、自立(自己愛)の状態を経由する必要があるということなのかもしれません。ドラマはあまり見なくなっていますが、見方によってはとても参考になるものですね。