物語は完結することはなく、常に中断する

私が子供の頃は、映画にしてもテレビドラマにしても、ハッピーエンドがほとんどでした。ハッピーエンドでない場合でも、それなりにああこれで終わりだなと分かるような結末でした。

あれから何十年と経った今でも、それは概ね変わらないのですが、それでも時々は、え、これで終わりなの?と感じるような幕切れの物語もありますね。

なんだか、尻切れトンボのような、不十分な感じがして、製作者に文句を言いたくなるような気持ちがするものもあります。

そこには、きっと製作者の意図があるのでしょうね。私たちは、時代が変われど、物語の結末を見ずにはいられないという傾向が間違いなくあります。

それは実は、エゴがそれ自身を存続させるための作戦なのだ、ということに気づく必要があります。物語の結末を知らずして、安心して死ぬことができないというのです。

けれども、これはある意味の騙しのテクニックに違いないのです。というのも、物語というのは、本当の意味でのお仕舞いというものはないからです。

一つの物語が終わっても、必ず次の物語がすぐにでも始まろうと待ち構えているからです。それは、大きなスパンで見れば、その繋がりを含めて大きな一つの物語であるとも言えるからです。

つまり、物語というのは決して終わりがないということです。物語が終わるときというのは、如何なる場合においても、中断したように感じるものなのです。

だからこそ、私たちは自分の人生という物語が終わりを迎えるときであっても、まだ続きがあると錯覚するのです。そうやって、輪廻の無限とも言える繰り返しが起こるのです。

肉体の死がやってくるのを待つことなく、いつでも人生を終える覚悟をすることです。そして、それは常に結末という感じではなくて、途中で頓挫したように感じることをあらかじめ覚悟しておくことです。

中断してもいいのです。まだ、やり残したことがあるという状態でも、完全に人生を気持ちよく終えることができるなら、肉体の死後に覚醒することになるのでしょう。