個人と全体性の二つの感覚を同時に感じる

毎日自分の人生を生きながら感じていることのほとんどが、自分はこの世界の中で一人の人間として生活しているということですね。

それを否定する必要もないし、否定することはできないわけですが、それでもなるべく忘れないでいるように務めていることがあります。

それは、個人としてここに居るという感覚のほかに、「ただ在る」という感覚を感じることができるということです。

それは奇妙なことに、全く異なる互いに相容れないような感覚なはずなのに、それが同時に自分の中で起き続けているのです。

そして、「ただ在る」ということの意味は、何かが在るということとは違います。何かなどはなく、ただ在るということです。

敢えて言えば、「在ることが在る」ということです。あるいは、「全体性が在る」とも表現できるかもしれません。

「神が在る」というよりも、「神性が在る」と言ったほうがしっくりくるように感じます。物質が存在するとかしないということも、「在る」の基盤の上で言えることです。

そして、「ただ在る」は本当は自分に一番近いところに在るのですが、それは距離がゼロなのではなくて、距離そのものがないということです。

目を開けると、この世界、あるいはこの宇宙が現象化して顕われ、そのすべてが「ただ在る」から流れ出てきていて、それらはコインの表と裏のようにくっついています。

「ただ在る」ことと、現象化された事象が、映像とそれを写すスクリーンの関係のように、密接に繋がっているということです。

一方で目を閉じると、すべての現象が消え去り、「ただ在る」だけがクローズアップされたようになります。それは深淵な「何もなさ」でもあるのです。

現象化された人生から一歩も逃げずに、同時にその基盤である「ただ在る」をいつも見続けていられるように、バランスを取ることが大切だと思います。